アンドリュー・ワイエス ~世界一有名な密会~

嘘をつくことは難しい。

バレない嘘や良い嘘をつくことは難しい。

しかしそれ以上に、不要な嘘をつかないことこそ難しい。

誰もが子供の頃に、「嘘をついてはいけません」と習ったはずだ。

それなのに今では日常的に嘘をついてしまう。

その結果私たちは、こんなにも多くの嘘に囲まれて生きている。

仕事では巧みに嘘を使いこなし、お店では広告の嘘に惑わされ、家族や恋人にまで嘘を重ねる。

もはや真実のみの一日などないのかもしれない。その中に「必要な嘘」はどれほどあるのだろう。

 

1970年代、あるアメリカ人の画家は妻に隠れて女性と会っていた。

妻は、夫が女性のヌードを描くことを嫌って「次はわたしの見えないところで」と頼んだという。

そこで画家は周囲に内緒で、近所に住む農婦と密会してヌードや肖像を描いた。

もちろん仕上がった作品は発表できない。画家は、ただひたすら描き続けた。

さて、これは必要な嘘だろうか?

女性に会っているとはいえ、あくまでも作品を制作する上でのモデルと芸術家の関係だけだ。

世間や妻を欺く必要はあったのだろうか?

 

密会はそれから15年も続いた。

画家が60代を終えようという頃、やっと作品は発表された。

それがアンドリュー・ワイエス<ヘルガ>シリーズだ。

妻や友人を欺きながら描き続けた作品は、240点を越えた。

 

アンドリュー・ワイエスは、20世紀のアメリカ美術を代表する画家の1人だ。

1917年、ペンシルベニア州チャッズ・フォードに生まれ、父は有名な挿絵画家N.C.ワイエスだった。

姉3人に兄1人の5人兄弟の末子で、子供たちは幼い頃から絵を描いた。

アンドリューも水彩を習ったり、ペンとインクで小説の挿絵を描いたりしていた。

しかし当時は姉たちが才能を見せていたため、彼は家族の中で孤立感を抱いた。

15歳になると近所に住むカーナー夫妻の絵を描くようになり、父のアトリエでも仕事を始めた。

わずか21歳で開いた初個展は、作品が完売するほど好評だった。

彼はここから順調すぎるほどハイペースに評価と名声を得ていく。

2009年にこの世を去るまで、アンドリュー・ワイエスは数えきれないほどの名誉博士号や芸術賞、勲章を手に入れた。

 

ワイエス作品の魅力は、風景を時間ごと切り取ったような写実性と冷静な視点だと私は思う。

そしてモデルに対する姿勢に特徴的だ。気に入った人物は何度でも繰り返し描き、同じモデルと長期間向き合った。

何十枚、何百枚という作品を生み出されていく。どんなに有名な画家になっても、プロのモデルではなく近所の人々を描いた。

例えばカーナー夫妻とは、約50年間も向き合っていた。

 

「ドキュメンタリー映画のようだ」

ワイエスの作品群に、私はそのような感想を抱いたことがある。

過剰な演出をせず、淡々とありのままの姿を捉える。

そこには人生があり、生と死がある。

一人のモデルを何年にも渡って描き続けた作品群は、一種のドキュメンタリー映画のようだった。

 

最初のお気に入りは前述の通り、生家近くで農場を営むカール・カーナーとアンナ・カーナー夫妻だった。

次は、別荘の近所に住むクリスティーナとアルヴァロ・オルソン姉弟を選んだ。

クリスティーナ・オルソンは、ワイエスの代表作≪クリスティーナの世界≫のモデルである。

小児麻痺で脚に障害を持ちながらも他人に頼らず、力強く生きていた。

弟はそんな姉を支えた。

この姉弟とオルソン・ハウスの屋内外を描いた<オルソン・シリーズ>は現在も世界的に高く評価されている。
生まれ育ったチャッズ・フォードの自宅ではカーナー夫妻を描き、夏はメイン州の別荘でオルソン姉弟を描くという生活が長く続いた。

クリスティーナが他界すると、ワイエスは彼女の葬儀で出会った少女を次のモデルに決めた。

近所に住む14歳の少女シリは、オルソン姉弟とは対照的に若く生き生きとしていた。

シリの成長と、カーナー夫妻の老いを描いて数年が経つと、今度はカール・カーナーが病に倒れた。

バトンを繋ぐように、カーナー氏の看病に来た近所の農婦が次のモデルに選ばれた。

この女性が秘密のモデル、ヘルガ・テストーフである。
ワイエスはヘルガを15年に渡って描き続けた。

その間1枚も<ヘルガ・シリーズ>は発表されておらず、その制作を知る者は姉1人だけだった。

マネージャーとして公私共に良きパートナーであった妻にも完璧に隠し通した。

そうして1985年に雑誌に掲載されるという形で公となり、世間の話題をさらった。

近所の主婦と15年間も密会を続けていたという事実は衝撃的で、世間にスキャンダラスな印象を与えた。

瞬く間にシリーズは有名になり、同時に世界中が知る密会となった。

 

さて、ワイエスはどうして<ヘルガ・シリーズ>を周囲に秘密にしていたのだろう。

その理由は妻が女性のヌードを嫌がったからとされているが、本当にそうだろうか。

もちろん最愛の夫が、密室に裸の女性と長時間二人きりでいることを喜ぶ妻はいないだろう。

しかし「次は私の見えないところで」と言われたからといって、15年間も周囲を欺き、一枚も発表せずにいる必要がどこにあったのか。

 

もしあなたが妻ベッツィの立場だったら、どう思うだろう。

15年間も自分に内緒で夫が女性と秘密の時間を過ごしていたと知ってしまったら、その関係を疑わしく思うのではないか。

妻のことを想ってついた嘘だというなら、後に発表してしまっては全く意味がない。

偽りの日々を知ることで、妻は余計に傷ついただろう。

 

では、なぜ隠し続けたのか。

それは彼の芸術のためだったのではないだろうか。

モデルの成長や老いを観察するかのように描き続けた画家にとっては、モデルが有名になることで起きる変化は脅威だ。

著名な画家のモデルと知れれば、メディアや世間に平穏な生活は乱されてしまう。

ヘルガへの刺激を避けたかった。

妻をも欺き続けた理由は、そこではないかと私は考える。

途中で邪魔が入ったら、ワイエスのドキュメンタリー映画は未完に終わってしまう。

そんな風に考えれば、芸術家として「必要な嘘」だったように思えてくるのだ。

その結果、秘密という状況がモデルと画家の絆を強め、冷静さと親密さを併せ持つ名作が誕生した。

あなたの嘘、それは必要な嘘ですか?

アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth)の画家とモデルにまつわる略年表
(1917年7月12日 米・ペンシルベニア州 ― 2009年1月16日 米・ペンシルベニア州)

1917年 ペンシルベニア州チャッズ・フォードの自宅で、5人兄弟の末っ子として誕生。
父は有名な挿絵画家ニューウェル・コンヴァース・ワイエス。
1923年 小学校に入学するも、神経衰弱になり2週間で退学。
1926年 水彩画を描くようになる。
1932年 父のアトリエで働き始める。
農場を営むカーナー夫妻、カールとアンナをモデルに描くようになる。
1937年 ニューヨークで個展を開催し、作品は完売する。
1938年 義兄よりテンペラ画を習う。
1939年 第二次大戦で入隊を志願するが、身体が弱かったために不許可になった。
後に妻となる女性ベッツィ・マール・ジェイムズに出会う。翌年、結婚。
1940年 妻に紹介されたモデル、オルソン姉弟を描き始める。
1943年 長男ニコラスが誕生。
1945年 父N.C.ワイエスと3歳の甥が乗った車が列車と衝突事故を起こし、二人とも死亡。
1946年 次男ジェイムズが誕生。彼も祖父や父と同じく、画家となった。
1950年 結核の為、片肺切除する手術を受ける。
1954年 コルビー・カレッジから名誉博士号を授与される。以降、数多くの賞を受ける。
1965年 父と次男と親子三代の展覧会を開催。後にワイエス家の展覧会は度々開催された。
1967年 クリスマス・イヴにオルソン姉弟の弟アルヴァロが死去。
1968年 1月27日アルヴァロを追うようにクリスティーナ・オルソンが死去。
彼女は200点以上もの作品のモデルになった。
1969年 フィンランド系の少女シリ・エリクソンをモデルに描き始める。
1971年 チャッズ・フォードでドイツ系女性ヘルガ・テストーフを描き始める。
1979年 幼年期より数多くモデルとなったカーナー農場のカール・カーナーが亡くなる。
1985年 <ヘルガ・シリーズ>が初めて雑誌に掲載され、存在が知られるようになった。
1897年 若い頃よりモデルにしていたウォルター・アンダーソンが死去。
フィンランド人とネイティヴ・アメリカンの混血で、50年あまりモデルを務めた。
1995年 オルソン・ハウスが文化財史跡に登録される。
1997年 カーナー農場で多くの作品のモデルを務めたアンナ・カーナーが亡くなる。
2009年 1月16日ペンシルベニア州チャッズフォードの自宅で死去。享年91歳。

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