アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 32

神秘的なクメールの微笑を浮かべ、四方八方から熱い眼差しを送る観音菩薩像

~ カンボジア アンコール・トム バイヨン1 ~

日本の全国各地に建つ寺院には、必ず本尊が安置されている。本尊は境内の中央に建てられた本堂に、神々しい姿を見せていることが多い。参詣することを目的とせずに観光などで立ち寄った寺院でも、神々しい姿を見ると自然に手を合わせてしまうのが、日本人の習性だ。ご本尊に手を合わせれば、周囲にある仏像は単なるオブジェとして眺めるだけだ。無意識のうちに仏像に格つけをしているのかもしれない。

ところが、一面に同様の風貌をした仏像が並ぶと、合掌することを忘れてしまうだろう。カンボジア西部のシェムリアップの郊外に残るアジアを代表する遺跡、アンコール・トムの中に建つバイヨンには、敷地一帯に似通った姿の仏像が立ち並ぶ。

アンコール・トムは、12世紀後半にクメール王朝によって建造された巨大な遺跡だ。王朝の最盛期のジャヤヴァルマン7世の時代に、帝都の中心に須弥山を象徴化する仏教寺院のバイヨンが建造された。寺院に向かって東西南北の四方から十文字の道路が設けられ、人と物が行き交う大動脈として都市機能を支えた。この道路は生活用としてだけではなく、須弥山に向かう参道の役割を担っていた。

仏教徒として信仰心の篤かったジャヤヴァルマン7世は、王宮に隣接する広大な敷地に石の伽藍を築いた。2つの回廊をもつ寺院の外周部分の第一回廊は、東西160メートル、南北140メートルにも及ぶ。

第一回廊の内側の第二回廊から階段を上ると、寺院の中心テラスに出る。日本の寺院で言えば境内にあたるエリアには、高さは45メートル中央祠堂を取り囲むように54の塔が聳える。土の地面を視界から消して繋がる石造の構造物は、地中から姿を表した石の動物のように見えてくる。高さに多少のばらつきのある各々の塔には、四面仏尊顔の観世菩薩像が刻み込まれている。テラスの中にいれば、どこであろうと菩薩からの熱い眼差しを受けることになる。塔の陰に入れば、太陽の光から逃れることはできるが、仏像の視線からの逃げ場などありえない。何しろ196面もの仏顔が林立しているわけだから、逃げようとせずに暖かい視線に包まれる方が賢明だろう。仏像の寺院の名称の中の「バ」はクメール語で「美しい」という意味をもち、「ヨン」は「塔」を表す。

こちらの方から仏顔に順番に視線を送ると、あたかも観世菩薩が空中散歩をしているように見えてくる。太陽光が陰影を作る空間に、仏の仮面が浮かび上がる。一つの仏像でも、太陽の動きに従ってシルエットが変化し、時間とともに少しずつ表情を変える。石にまとわりついた苔や、樹の根は自然のアクセサリーだ。

各々の仏像は、「クメールの微笑」と呼ばれる神秘的で優しい微笑みを浮かべる。互いに似通った穏やかな表情をもちながらも、ある菩薩は目を閉じて瞑想し、ある菩薩は目を開き三千世界を見つめている。長さ2メートル前後の顔の上の頭部には、戦士を表す葉飾り付きの冠を被っている。大きくて平べったい鼻と、長い頭部が少しバランスを欠くように見えるが、石のもつ重量感が地面にどっしりと根付かせている。小さな違いを探しながら仏像を見比べると、時間を忘れてしまいかねない。

アンコール・トムに暮らした人々は、196面の観世菩薩像の中から微妙な違いを見極め、自分好みの仏像を選んだのだろうか。岩山のような空間に落ち着きの場所を見出し、心を清めたのかもしれない。帝都の中心で須弥山の世界を表現した寺院は、クメール王朝の人々の精神的な支えとなったに違いない。

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