現代アートを見ていると、時折理解に苦しむような作品に出会うことがあります。
勿論、そのアーティストの意としている部分を全て理解することは必要ないでしょうが、どうしても不明なものと遭遇した時の自分の感受性の弱さにがっかりします。
でも、そんなことを思う必要はあるのでしょうか?
そもそも、アート作品というのはどこからがアートなのでしょうか?
人によっては、自然にあるものが全てアートである、という考え方もあるでしょうから、この質問自体無意味かもしれません。
しかし、アーティストとして生活ができている方の作品は間違いなく世間で認められており、アートと呼んでいよいものでしょう。
で、あれば、名の無いアーティスト達の作品はアートの境界線を超えていないということになります。
しかし、それもひとつのアート作品と言われればそれまで。
何だかややこしい話になってきてはいますが、要するに自分の心の物差しの中でアートと認められる作品であれば、アートであり、そうでなければガラクタとなるのでしょう。
では、絵画を描く方が個展を開くとして、その絵に大勢の方が感銘せずに、評価も最悪であったとしましょう。
では、その絵はアートでは無いのでしょうか?
100人来場して、そのうちの1人が素晴らしい作品であると褒めた讃え、結果的にその方がパトロンになります。
しかし、99人のかたが認めていない作品を、その1人の援助のおかげで作品を作り続けることになりますよね。
つまり、その1人の人にとってみれば最高のアートを多くみるキッカケになり、99人の方はアートでは無いゴミを永遠に見続けることになるわけです。
そう考えると、ある意味アートというのはある種の暴力にもなるかもしれません。自分の好き勝手に制作をすることは、本当に良いのでしょうか?
しかし、それをアートと見なす方がいれば、それはアートへのアプローチを続けていることになり、アーティストとして活動は続けられるのでしょう。
アートの根底というのは、何のために誰のためにあるのでしょうか?
おそらく、答えは人それぞれでしょうが、考えだすと止まらなくなってくる、最大の課題でもあります。
余計なことかもしれませんが、アートという実態の無い何かを考え出すと、こういったことが頭を巡ってしまうんですよね…。