ジャン=バティスト・カミーユ・コロー ~素敵な勘違い~

待ち合わせのカフェには5分早く着いたが、窓際に彼の横顔があった。通りの向こうに大きな公園があり、都心とは思えないほど豊かな緑が楽しめるこの店は、彼のお気に入りだった。彼女がガラスをノックすると、彼は眩しそうに目を細めて「入って来い」という合図をする。太陽に向かって歩いてきた彼女には、店内がいつもより暗く感じられた。
「はい、お土産」
彼はきわめて素っ気なくテーブルに白い箱を置いた。
「ありがとう!何?開けて良い?」
包装紙もリボンもない小箱を開けると、紫色のビロードの袋があった。中には一粒の真珠がついたペンダントが入っていた。初夏の強い日差しを浴びた宝石が彼女の掌で淡いピンクに輝く。
「ありがとう!!見て、見て。似合う?」
彼女は頭にペンダントを乗せるようにして、額の中央に真珠を垂らして見せた。ふざけているわけではなく、大真面目で似合うかどうかを尋ねている。
「なにそれ?変!なんで首につけないの?」
「カミーユ・コローの≪真珠の女≫の真似よ。一緒に観たじゃない!ムカツクなぁ」
ペンダントを下すと、言葉とは裏腹に上機嫌で真珠を眺めている。
「でも本当は、コローの≪真珠の女≫って真珠じゃないんだけどね」
「ん?どういうこと?真珠の女なのに、偽真珠なの?」
不思議そうな顔をして、彼は残っていたカプチーノの泡をズズッと音を立てて飲み干した。
「そう。実は偽物なんだな」
彼の驚いた表情を確認して、彼女は満足そうに微笑んだ。
「真相、聞きたい?」

フランス絵画の巨匠ジャン=バティスト・カミーユ・コローは、1796年パリに生まれた。実家は高級帽子店を営んでおり、織物商の父親は自分と同じ職業に就くことを望んでいた。19歳になったコローは画家になりたいと父に告げるが、もちろん許されなかった。諦められない夢を抱えたまま、コローは家業を継ぐために父の友人の店で働き始める。そんなコローが25歳の時、1歳年下の妹が亡くなった。悲しい出来事ではあったが、彼女の死は結果的に偉大な画家の誕生のきっかけとなる。翌年、両親は息子が夢を追うことを許して、当面の生活費として妹の為に用意していたお金の一部を渡した。

注文したカフェオレが運ばれてくると、彼女は両手でカップを包んで香りを楽しんだ。しばらく飲まずに香りだけで味を想像する。それは彼女にとってカフェオレを飲む儀式みたいなものだった。
「コローのお父さんは大切な娘を失って初めて、息子が自分の人生を歩むこと許したんだ。きっと、気付いたのかな。人生は一度きりで、いつか突然終わってしまう儚いものだって」
「確かに。成功する人生より、後悔しない人生の方が幸せだもんな。その上、お金に困らないなら尚更。才能ある上にリッチな親父がいるなんて、人生最高だろうな」
「でもこの時、お父さんはコローに2つの選択肢を与えたの。ねえ、もしパパさんに聞かれたらどっち取る?一括で大金を貰って会社を継ぐか、毎年少しの利子だけを貰って自由に生きるか」
「それは……、トータルでどちらが得かに依るよ。金額にも夢の大きさにも依るんじゃない?でもまあ、どっちを選んだとしても、自分で決めた人生が一番なんだよ」
カップの底で少し残ったカプチーノの泡が固まり始めていた。それをスプーンでかき混ぜながら彼は自らの境遇に近いコローの生い立ちに親しみを感じた。

コローの父ルイ=ジャック・コローは尋ねた。いずれ遺産として相続する約10万フランを受け取り自分の織物店を開くか、毎年1500リーブルの利子を渡すから画家の道を選ぶか、どちらにするか。恐らくこのリーブルはフランの俗称と思われるので、1リーブル=1フランとすると家業を継ぐのであれば66倍以上の大金を手に入れられたことになる。それでもコローは大金より画家になることを望んだ。
人生最初の師となったのは、風景画家ミシャロンだった。師弟が同じ年齢である事からも、コローがどれほど遅いスタートだったのかが分かる。しかし数か月後にミシャロンは若くして急逝してしまい、それから3年間は当時人気の風景画家ベルタンに師事して新古典主義の絵画を学んだ。短い期間だったが、ミシャロンの“自然を率直に描け”という教えは、人生最大のアドバイスとなった。

あまり性格について語られることはないが、コローは人に意見する事が苦手で臆病な性格だったという。恥ずかしがり屋でマザコン気味の青年は、特に威厳のある父親の前では大人しかった。父の望みに逆らって自らの意思を貫くことがどれほど難しかったか、想像に容易い。画家として成功してからも人前で話すことは不得手で、サロンの審査員を務めても周囲の意見に同調しがちだった。いつまでも家族に甘え、経済的にも援助を受け続けた。そんな彼は、驚くべきことに40代になっても父から旅行の許可を貰っていたという。

最初のイタリア旅行では、自作が太陽の光や自然の美しさに負けてしまうことを嘆きながらも画家として決意をした。「自分の人生には1つの目的しかなく、変わることなく追求している。それは風景画を描くことだ」と友人への手紙に書いた。風景画に熱心過ぎて結婚には熱心になれないとも漏らしているが、その言葉通りひた向きに風景を描き続け、生涯独身を通した。ありのままの光や色彩を捉えることに努力し、大きくスタイルを変えることも信念を曲げることもなかった。
年を重ねると、淡い霧の中のような美しい風景を描いくようになった。それは彼の特徴となり、「銀灰色の靄」などと表現される。詩的情緒溢れる銀灰色の景色でも、物語や歴史画的な要素を備えた作品でも、コローは決して自然本来の姿から離れた景色は描かなかった。そんなコローの作品を見れば、自分が魅了された自然の姿をそのまま表現しかったことが分かるだろう。

風景画を究める一方で、コローは人物画でも才能を発揮した。その中でも有名なのがコローの≪モナ・リザ≫とまで称される≪真珠の女≫である。寸法、構図、手を組み合わせて座る女性のポーズなど様々な要素がレオナルド・ダ・ヴィンチの≪モナ・リザ≫を想わせる。面立ちや色調などはルネサンスのもう一人の巨匠ラファエッロを連想させる。これらの特徴から、19世紀よりもずっと古い絵画と対峙しているような錯覚を起こす作品である。若い鑑賞者なら、ルネサンスの巨匠たちのコラボという感想を抱くかもしれない。
この絵のモデルは、生地商人の娘ベルト・ゴルトシュミットではないかというのが有力説だが、正確なところは今も分からない。イタリア風の衣装の胸元の弛みは、一見だらしなく見えるかもしれないが、これが絶妙なバランスである。もし彼女が完璧すぎていたら神聖化してしまい作品の魅力は半減していただろう。
≪真珠の女≫の制作は1868-1870年頃と言われている。既に痛風に苦しんでおり、病の為に安静を余儀なくされていた。それでも取り組んだこの作品を、コローは大変気に入っていた。完成して5年後に彼は亡くなるが、その時まで自宅に大事に飾っていたという。

「額から頭に巻く飾りって、ダ・ヴィンチの作品のタイトルに由来してフェロニエールって呼ばれているのよ。作者が死ぬまで大事にしていた女性の肖像って点でも、≪モナ・リザ≫を彷彿させるから、頭につけているものがフェロニエールだと思ったんだろうね」
彼女は仕方ないといった口調でそういうと、一気にカフェオレを飲み干した。
「あのサッカー選手のヘアバンドみたいな変なやつだろ?」
いつになく真剣な眼差しで話を聞いていた彼は、一転おどけた調子で砂糖の小袋を指先でキックする仕草をした。
「でもこれは草花の冠だったのかなって思うんだ。コローは同時期にいくつか草や花の冠とか花輪をつけた女性を描いているから」

1866-70年頃に制作されたボストン美術館所蔵≪花輪を編む若い娘≫は、手に花輪を持って立つ少女を描いている。衣装も≪真珠の女≫と同様にイタリアのものだ。また1865-75頃に制作され現在ボルティモア美術館に所蔵されている≪花冠≫にも草花の冠が見られる。≪真珠の女≫と同じルーブル美術館の所蔵作品には、1845年制作≪本を読む花冠の女、あるいはウェルギリウスのミューズ≫があるが、これも良く似た冠をつけている。
ルネサンスの巨匠たちの魅力を融合させて生み出した完璧な美≪真珠の女≫に、コローは花や葉など自然美のエッセンス加えたかったのかもしれない。

「じゃあ、偽物の真珠っていうか後世の人が勘違いしたってこと?」
「そう。一般的には葉っぱの飾りではないかって言われているんだよ」
「へー、誤解したまま勝手なタイトルを付けて、もう世界中でそう呼んじゃってるな」
「うん。でもコローには申し訳ない話だけど、タイトルとしては“葉っぱの髪飾りの女”なんかより、≪真珠の女≫の方がずっと素敵だよね。最高に素敵な誤解だわ。じゃあ、そろそろ時間だから行く?」
席を立つと彼女はもう一度ペンダントを頭に乗せて、「葉っぱのペンダント、ありがとう」と笑顔を見せた。ガラス越しの景色と違って、外は想像以上に眩しい光で溢れている。今日は公園の木々の下を歩いて行こうと、二人は歩き出した。
本名(英語表記) ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot)の
家族と自然にまつわる略年表
(1796年7月17日 フランス パリ ― 1875年2月22日フランス パリ))

1796年 パリに生まれる。
1815年 父の友人の店で見習いを始める。画家になりたいと打ち明けるが許されなかった。
1817年 のちに師となる画家ミシャロンと出会う。
1821年 1歳下の妹が亡くなる。その5日後、コローは友人に風景を描いていると手紙で伝える。
1822年 画家の夢を許され、両親から生活費を貰って画家としてスタートする。
風景画家ミシャロンに弟子入りするが、同年に師は急逝。
ベルタンのアトリエで新古典主義的な絵画を学ぶ。
1826年 人生の目的は一つしかなく、風景画を描くことだと手紙で友人に伝える。
1835年 最初の弟子の1人に「しっかりした本当のデッサンをしなさい。誰の絵のことも考えず、あなた自身の目で本当の色を捉えること。そうすればアトリエでも本当の色をすぐに想い出せる」と手紙で教える。
1847年 5月から半年間、父親の看病をする。
11月28日に父ルイ・ジャック・コローが死去。
1851年 2月27日に母親も他界。
1853年 餓鬼のように仕事をするとか、気がふれたように仕事をするなどと手紙に記す。
1862年 病気の義弟と妹の看病をする。
1863年 頭のない人間を想像できないのと同様、自然から離れた風景など描けないと画商に意見する。
1866年 痛風の発作に苦しむ。
1868年 病と疲労のため安静を要する。
1972年 体調不良でここ数年間は安静を余儀なくされていたが、この頃から体調も制作意欲も回復した様子。
1873年 作品の需要が高まり、何人もの助手を雇う。
1874年 姉アネット=オクタヴィ死去。
1875年 2月22日コロー死去。

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