万能の自由人 ~モーリス・ド・ヴラマンク~

もしその年にパリの展覧会を訪れていたら、猛獣の雄叫びをこの耳で聞くことができたのだろうか。荒れ狂う獣をこの目に焼き付けたのだろうか。我ながら軽薄だとは思うが、私はそれを少し残念に思う。

人気画家の作品が飾られた展示室での出来事だった。突然、大男が暴れ出した。男はキャンバスをむんずと掴むと、あろうことか巨匠の作品を迷いなく引き裂いた。周囲の制止を振りほどき数枚の作品を無残に破き捨ていく。近くにいた白い羽根帽子の老婦人は恐怖の面持ちで固まっていた。真っ赤なシルクのドレスをきた女性は、隣の紳士に支えられるように立っていたが、そのうちゆっくりと床に座り込んだ。しばしの沈黙の後、展示スペースにはざわめきが広がった。
人々は彼が誰なのか、その言動から察した。そして、なぜこれほど怒りを顕わにしているのかも理解した。居合わせた芸術愛好家の人々は凄まじい破壊行為に驚きつつ、きっと彼を好意的に受け止めたはずだ。なぜなら男は著名な画家で、自らが描いた覚えのない贋作を目にして怒り狂っていたのだから。

1928年の冬、画家モーリス・ド・ヴラマンクは既に人気画家になっていた。いくつもの展覧会に数多くの贋作が出回り、その事実を目の当たりにした彼は怒りにまかせて作品を引き裂いという。華やかで上品に思われがちな芸術界には似つかわしくない暴力的な方法だが、野獣派(フォーヴ)出身の画家には相応しい堂々とした行動だったとも思える。卑劣な行為を前に、一秒でも我慢できなかったのだろう。
贋作者や詐欺師を美化したドラマや映画は数多くある。しかし本当の犯罪は、映画『スティング』のようにスマートではないし、美しくも気持ち良くもない。感情を剥き出しにした大男の行動は、贋作や詐欺という行為が憎むべき卑劣なことであると改めて気付かせてくれる。だから私は、1928年のパリの展示室に居合わせたかったのだ。周囲の人々は名画を破壊されることへの恐怖と怒りの後に、状況を理解して画家に同情と共感を覚えたはずだ。そして、贋作という存在に怒りと悲しみを抱いたのではないだろうか。

フォービスムの画家モーリス・ド・ヴラマンクは、1876年パリに生まれた。父親は教会のテノール歌手も務めるヴァイオリン教師で、母親はピアノ教師だった。音楽一家に生まれた彼は、幼い頃より父にヴァイオリンを習い、後にヴァイオリン教師や演奏家として生計を立てている。学校の勉強には熱心ではなかったが、祖母の影響で熱心な読書家となった。読書好きの少年は、大人になって小説や詩を書き多くの作品を出版した。祖母が亡くなった年、少年は父に自転車を買ってもらう。当時ブームだった自転車に少年は夢中になった。そして4年後、彼は自転車レースに出場して優勝。身長180cm、体重80kgを超える見事な体格の青年は、瞬く間に競輪やオートレースの選手として才能を発揮する。
画家の道の一歩目は、家族がシャトゥーに引越した1892年頃である。その頃から絵を描くようになり、1900年にドランと出会い共同でアトリエを借りた。20歳で結婚して父親になった売れない画家ヴラマンクは、腸チフスを患うまでは自転車の選手として生計を立てた。その後は酒場で演奏をしたりヴァイオリンを教えて暮らした。ドランとはいつも一緒に制作をしていたが、しばらくして彼が兵役に就いたため共同アトリエを引き払うことになる。戦争から親友が戻ると、また以前のように二人で絵画制作に勤しんでいたが、ある時ドランは絵画学校で学ぶことを決意する。ヴラマンクは生来、学校というものが嫌いだった。規則に縛られ、何かを強制されることが苦手な性分であったため、ドランの入学には否定的だった。結局、ヴラマンクは独学で自らの表現を模索することとなり、ドランだけが学校に通い始めた。しかしそのお蔭で学友のマティスを紹介され、マティスの誘いで独学の画家もアンデパンダン展に参加した。同年、マティスらと揃ってかの有名なサロン・ドートンヌ展に参加をした。

「フォーヴ」とは野獣の意。その言葉を理解する簡単な方法が、作品と対峙する事だ。彼らが野獣派と呼ばれる所以は、その色が、その筆遣いが、説明してくれる。1905年、パリのサロン・ドートンヌ展には原色を用いた絵画がぎっしり展示された部屋、第七展示室があった。評論家ルイ・ヴォークセルは激しく鮮烈なその色彩表現を観て「フォーヴ」と称した。蔑称だったはずのその呼び名は、いつしか賛辞へと変化していった。

そんなフォヴィズムが始まる一室に、ヴラマンクの作品は5点も展示されていた。当時は彼の絵を理解する評論家は数少なかったが、翌年には批判に混じって好意的な評価が聞かれ始める。
それからも変わらずドランと共にデッサンしたり出歩いたりしていたが、戦争が彼らの友情を引き裂いた。3歳という年齢差ゆえに配属先に違いが生まれた。前線に駆り出されたドランと予備兵となった反戦主義のヴラマンクは、戦争への意見の違いから心まで離れていき、交友を絶ってしまった。それ以後ヴラマンクには親しい友といった存在はなく、再婚をして小さな村に移り住み絵画制作を行う。82年の生涯、絵画に執筆に熱意を注ぎ、何にも囚われない自由な芸術家として輝き続けた。

ヴラマンクはフォーヴィスム(野獣派)の画家として名高いが、彼の生涯を振り返ると画家になる以前から音楽家であり、競輪選手であり、作家であったことが分かる。マルチな才能を持ち主であり、ほとんど独学で世界的な画家に成長した。その身体能力と芸術センスは、天才と評して過言ではない。
晩年、彼は遺言を記している。絵画を描くことで共有の宝物である自然を後世に遺し伝えたかったと。自らが見た空や雪や花や蝶の素晴らしさを私たちに遺してくれたのだ。今見上げる空はもう二度と見ることはできない。今日という日は、二度と訪れない。それは当たり前のことかもしれないが、貴重な景色や出来事に一喜一憂できる豊かな人生の魅力を、この画家は教えてくれる。

モーリス・ド・ヴラマンク(Maurice de Vlaminck)の家族と親友にまつわる略年表
(1876年4月4日フランス パリ― 1958年10月11日フランス リュエイユ=ラ・ガドリエール)

1876年 音楽一家に長男として誕生。
1879年 一家は貧しく、母方の祖母を頼ってル・ヴェジネに移住。自然の中で少年時代を過ごす。
1881年 弟ロベールが誕生。
1882年 小学校に入学するが、勉強を強制されたり規則に服従することを嫌い反抗的な部分を見せる。父からヴァイオリンを習い始める。
1885年 11歳で姉が亡くなる。
1888年 相変わらず勉強はしなかったが、読書には大変熱心だった。父は音楽家人生を息子に望んだ。
1891年 祖母の死をきっかけに家を売却。父親より自転車を買い与えられ、熱中する。
1892年 一家はシャトゥーに引越す。ヴラマンクは絵を描くようになる。
1895年 自転車レースに出場するようになり優勝。競輪場と契約を結び、収入を得るようになる。
1896年 お互い20歳だったがシュザンヌと9月に結婚。12月には長女が誕生。
1897年 自転車やボートレースに出場し、賞金を獲得して生計を立てていたが、8月に腸チフスを患い、レーサーを引退。
1898年 軍隊に入り、3年間の兵役に就く。軍では音楽隊に配属された。
1899年 友人と共作し、小説を書く。軍隊の祭典の際には、舞台背景を描いた。
1900年 シャトゥー生まれの画家ドランと運命的に出会う。兵役を終えて、音楽家として生計を立てながら、シャトゥーにドランと共同アトリエを借りる。
1901年 家計は貧しく、キャンバスは何度も使いまわした。
ドランの紹介でヴァイオリンを教える仕事をしながら、何とか絵画制作を続ける。
ゴッホの展覧会で強い感動を覚え、純粋な色彩表現に目覚める。
ドランが兵役に就き、一人で家賃を払えないためアトリエを引き払う。
1902年 3年前に共作した小説が出版され、挿絵をドランが担当。2作目の小説を書き始める。
1903年 息子トリスタンの誕生。数か月後に事故で亡くなる。2作目の小説が出版され、この時もドランが挿絵を描く。
1904年 兵役から戻ったドランと屋外制作に励んでいたが、ドランが画塾に通うことを決心したことにヴラマンクはショックを受ける。
1905年 ドランが友人マティスを紹介し、一緒にアンデパンダン展の参加。
4月、娘ヨランドの誕生。アンデパンダン展で1点のみ売れた代金が出産費用になる。
ドランと共に洗濯船に出入りするようになり、ピカソやそこで活動する多くの若い芸術家たちと出会う。
10月-11月、サロン・ドートンヌ展に参加。第七展示室に飾られ、多くの批判を受ける。
1906年 画商ヴォラールが全作品を購入。今後も作品を買い取ることを保証した。
1907年 3作目の小説が出版されるが、出版社が断ったために挿絵はドランではなかった。
1908年 フォーブから離れた作風を見せ始める。
1914年 戦争に動員されるが、39歳だったので予備軍に配属され、3歳年下のドランは前線へ行った。
1918年 戦争に肯定的なドランと、反戦、反軍国主義のヴラマンクに距離が生まれる。
1920年 ゴッホが晩年を過ごした村に家を買って、ベルト・コンプを住まわせる。二人は数か月後に結婚し、女児を授かる。
1921年 父エドモンド、死去。「突然、孤独になった気がした」と語る。
1925年 小さな村に家を購入して、増築を繰り返しながら終の棲家とする。
1927年 ベルト・コンプとの次女ゴドリーヴが誕生。
1928年 贋作が多く出始め、画廊や展覧会でいくつかの贋作を見つけて引き裂いた。
1934年 執筆に精を出し、続けて2作も出版。その後も回想録、詩、小説などの出版を続ける。
1947年 画廊の企画でドランとヴラマンクの展覧会が行われる。
1958年 10月10日の夜、逝去。享年82歳。

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