アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 39

青瓦と白壁の建造物が一直線に並ぶ紫金山の上で静かに眠る孫文

~ 中国 南京 中山陵 ~

人間の生命には限界がある。各々の寿命を全うし、永遠の眠りにつく。遺骨が墓に納められ、次の世代を生きる人たちによって霊が弔われる。現代の一般的日本人は、墓石が並ぶ墓地に葬られるが、古墳時代の権力者達は、広大な敷地をもつ古墳を築いた。仁徳天皇は、三重の周濠を巡らした全長486メートル、高さ36メートルに及ぶ前方後円墳に葬られているとされている。

中国の南京市の北東部に聳える紫金山は、山全体が孫文の陵墓となった。敷地面積は約1万平方メートルにも及ぶ空前のスケールをもっている。自然の緑に包まれる山肌一体が中山陵園風景区として整備され、オアシスのような佇まいを見せる。

孫文は中国革命の父として、国父の尊称をもっている。1866年11月12日、現在の広東省中山市に暮らす客家の農家に産まれた。アヘン戦争に始まり、清仏戦争、日清戦争などによって腐敗が進む清朝に憤りを感じ、中国の革命を志すようになる。1894年1月にはハワイで興中会を組織した。日本、アメリカ、イギリスなどを移り住みながら、中国の近代化を模索した。1905年には東京で中国革命同盟会を結成し、民族の独立「民族主義」、民主制の実現「民権主義」、地権平均、資本節制による経済的不平等の是正「民生主義」の3つの理論から成る「三民主義」を主唱した。

1911年10月10日の武昌蜂起をきっかけとして、全土で独立を訴える辛亥革命に発展し、1644年から続いた清朝は崩壊した。孫文は1912年1月1日に臨時大総統に就任し、南京において中華民国の建国を宣言した。大総統在任期間中には、国内で中国共産党の誕生、海外で第一次世界大戦、ロシア革命などの大事件に直面しながら、国民党のリーダーとして中華民国の確立を目指した。ところが、革命の道半ばの1925年3月12日、「革命未だ成らず」の言葉を残し北京で逝去した。

中国国民党の指導者の葬礼は、1927年6月に、国民政府治下の南京で厳粛に執り行われた。孫文の亡骸を受け入れるために民国政府は、長江の第一埠頭から紫金山まで全長12キロの「迎柩大道」を新しく敷設した。この街道は、現在の中山北路、中山路、中山東路から中山門に至る南京市の幹線道路となっている。紫金山は全域にわたって、1926年から3年の月日をかけて整備された。陵園が完成した1929年には、北京の中山公園に安置されていた孫文の遺体は南京に移された。

陵墓は、山の斜面を巧みに利用して、牌坊、墓道、陵門、碑亭、祭堂、墓室が、一直線に並んでいる。全て、花崗岩とコンクリートによる建造物だ。祭堂に向かう高低差73メートルの墓道は、392段の階段で構成される。これは当時の中国の人口が、3億9千200万人に因んだものと言われる。

陵墓の建造物は、青い瓦と白い壁でデザインされている。国民党の党旗でもある青天白日旗から配色されたものだ。青は民権主義と同時に自由、白は民生主義と同時に平等を象徴し、中華民国の絶え間ない進歩を願う意味をもつ。青色と白色の色彩は、山の緑と空の青に囲まれると、控えめな印象を与えなくもないが、質素な佇まいの中に、清潔感と統一感を漂わせている。幾何学的にも単調に見えるが、陵墓の入口と中心の祭堂を直線で結んでいる。

山の頂上付近の見晴らしのよい陵園の奥に、中心施設の祭堂が建つ。祭堂の奥に孫文の臥像が施された大理石の棺が横たわり、その中に遺体が安置されている。中華民国誕生の地に聳える山の上で、中国の国民を見守り続けることであろう。

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