食のグローバリゼーション 15

一日一食の修行僧の精進料理

~ ミャンマー バゴー カカットワイン僧院 1/2 ~

食べ物の好みは、人によって千差万別だ。人夫々に、好みの味や食感があるものだ。好きな物であれば毎日食べても飽きることはないが、嫌いな物は口にすることができないだけではなく、見るのも嫌だという場合もある。

それとは別に宗教上の価値観から、敬遠される食材も数多い。牛は仏教やヒンドゥー教の世界では神聖な動物であるため、信仰心の篤い仏教徒やヒンドゥー教徒が牛肉を食べることはない。豚は雑食であるからか不浄な動物とされイスラム教徒は豚肉を口にすることはない。また、ジャイナ教徒や一部のヒンドゥー教徒は根菜類を食べない。芋や人参などの食材に問題があるわけではなく、地下から掘り出すときに土の中に暮らす小さな生物を傷つける可能性があるからだ。また卵にしても、有精卵か無精卵を区別し、無精卵のみを選んで食べる人もいる。厳格なヴェジタリアンと食事をすることになると、相当な神経を払わなければならなくなる。目に見える食材は言うに及ばず、料理に使った油や調味料に動物性のものはないか、一つ一つ確認せざるをえなくなるのだ。

食に厳しい制限を加える宗教がある中にあって、仏教やキリスト教は比較的寛容と言えるだろう。一般の信者で、食にタブーを設けている人はまれだ。ところが、信者に教えを説く聖職者の中には、自らを厳しく律している人は多い。比叡山や高野山で生活をする僧侶たちは、精進料理だけを食べて生活を送っていることだろう。

それでは修行に励む修行僧はどのような食生活をしているのだろうか。ミャンマーの古都、バゴーの郊外にあるカカットワイン僧院を訪ねてみた。常に1000人を超える若い僧侶が修行に励む道場で、ミャンマーでも屈指の僧院だ。一般的に、僧侶は正午以降には食事をとらない。朝に小食(しょうじき)、昼に中食(ちゅうじき)をとり、夕は「食事に非ず」とされる。一般の人は一日三回の食事が標準だが、僧侶には二回しか許されてない。

ところが、カカットワイン僧院の修行僧には、一日に一回しか食事をとらない。毎朝10時30分に銅鑼の音が僧院の中に響き渡る。これが一日に唯一の食事の合図だ。合図とともに次から次に修行僧たちが、壷のような食器を持って食堂に繋がる廊下に集まる。物音一つさせることなく静寂の空間に、アッという間に長い列ができあがる。同じ袈裟を身につけた修行僧が、規律正しく一列に並ぶのだ。

一日に一回しか食べ物を口にしないのだから、さぞやお腹が減っていることだろう。きっと、早く空腹を満たしたいと思っているはずなのだが、先を急ぐ修行僧の姿など皆無だ。列は乱れることなく整然と音もなく前へ進んで行く。目の前を横切る修行僧の顔は時間とともに変わっていくが、廊下に形作られる構図は全く変化しない。

緩やかに前進する列の中に身を任せていると食堂の前に辿り着く。入口には大きな釜があり、そこで食器を差し出しご飯を入れてもらう。修行僧たちにご飯をよそうのは、僧院の関係者ではなく近所の人などの一般人だ。観光客でも修行僧に給仕することができる。食事の手伝いをすれば、修行に励む僧侶を元気づけることにもなるだろう。ところが、ご飯の適量を判断することができない。お腹を空かせているだろうと思って大量によそうと、一日一食の生活に慣れた胃袋を膨らませてしまう逆効果を生みかねない。量に不公平を生じるのはよくないし、1000人を超える修行僧のためのご飯が釜の中に入っているのだから、途中で足りなくなっては大変だ。手慣れた人の様子を参考に分量を調整せざるをえない。

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