アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 41

飾り気のない直線的な構図に共和国建国のエネルギーが凝縮される霊廟

~ トルコ アンカラ アタテュルク廟 1/2~

日本は第二次世界大戦の際に、大東亜共栄圏などという思い上がった妄想の元、アジア諸国に進軍し天罰を受けた。戦後半世紀を過ぎても、隣国との外交交渉の際には歴史認識が課題となる。明治維新以降の近隣諸国への進出が、現在の日本社会を築いたのだが、日清戦争に始まるアジア大陸侵攻を肯定するアジアの国はないだろう。

ところが唯一、日露戦争は中近東の諸国で、評価されることがしばしばある。日露戦争当時のロシアは、不凍港を持たないため南下政策をとっていた。南に向かうルートとして、黒海に面するクリミア半島、千島樺太列島、朝鮮半島に視線が向けられた。西部ではトルコ、東部では日本などと抗争することになったのだ。ところが、日本は富国強兵政策で軍事力を拡大させながらも、アジアの東の端に浮かぶ小さな島国でしかなかった。そのような日本が大国のロシアとの交戦で勝ったことは、中近東諸国の人々を勇気づけたと言う。

中でも、トルコ共和国建国の父、ケマル・アタテュルクは、相当な親日家であった。第一次世界大戦の終戦後、崩壊したオスマン・トルコから政権を引継ぎ、トルコの近代化政策を行った。その際に手本としたのが、明治時代から急速なスピードで発展した日本だったのだ。国教分離政策を基本として、イスラム教の習慣に基づく社会を一新しヨーロッパ化を促進した。

独裁者とも言える存在でありながら、今でもトルコ国内のいたる所に、ケマル・アタテュルクの姿が溢れている。公共施設ばかりではなく、個人商店の中にもケマル・アタテュルクの写真が飾られている。トルコの近代化をリードした建国の父は、現在のトルコ国民の絶大な支持を受け、尊敬されているのだ。

1923年から大統領を務めたケマル・アタテュルクは、現在のトルコ共和国の礎を築き1938年11月10日、イスタンブルのドルマバフチェ宮殿で執務中に息を引取った。遺体は、首都のアンカラに移された。共和国誕生と同時に首都を置いた人口わずか6万人の地方都市だ。市街地の南東の丘の上に霊廟の建設が始まった。国内で産出した石材のみを使い、15年の歳月をかけて1953年9月に完成した。

広大な敷地に石が敷き詰められ、4万人に及ぶ人々を収容することができる広場が作られた。建国の父を記念する行事に集まる大勢の人々が考慮されたものだろう。広大な広場には、解放感が漂うばかりでなく、霊廟に向かう直線的なエネルギーが集約されているかのようだ。

石畳の広場を踏みしめながら霊廟に近づくと、正面左右にレリーフが立っている。パネルには、紀元前15世紀頃にアナトリア半島に王国を築き、世界初の鉄器文化を築いたヒッタイト族の姿がいきいきと描かれる。石に刻まれた人々や動物の姿に、リアルな動きが漲る。アナトリア地域の歴史を遡れば、現在の共和国から、オスマン・トルコ、東ローマ帝国、さらにはヒッタイトの帝国にいたるのだ。

2枚のレリーフに挟まれる霊廟は、地面から等間隔で垂直に建つ数本の列柱で囲まれる。飾り気のない石による柱だが、地面と天井を繋ぎトルコ共和国の堅固な基盤を表現しているかのようだ。近代国家を作り上げたエネルギーが凝縮しているのだ。

霊廟の奥には、床面からせりあがったところに、ケマル・アタテュルクの棺が納められている。この棺の下の地下深くに、遺体が安置されているという。自然の大理石がもつ光沢とつやが、どっしりとした重量感を醸し出している。建国の父、ケマル・アタテュルクの存在感が漲っている。

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