夢の逃亡者 ~オディロン・ルドン~

揺れる空を見ていた。

青い大空に浮かんでいるような気分だった。

延々と馬車に揺られているうちに、その心地良さは次第に心細さに変わった。

生まれてすぐに赤ん坊は馬車の荷台に乗せられ、里子に出された。

生後二日では、その記憶があるはずはない。

しかし青く大きな空を漂っているような感覚と、底知れない孤独は心のどこかに残っていたのかもしれない。

この赤ん坊が後に生み出す名画には、黒い奇怪な生き物たちが描かれ、独特な浮遊感があった。

私は、熱を出すと決まって見る夢がある。

モノクロームの空間に高い塀があり、その上をコロコロとボールが転がっていく。

幅の狭い塀の上から、いつ落ちるとも分からないボールの行方をただ見守るだけの夢。

私の視点は時に俯瞰で、時に横から、時に下から見上げている。

厭きれるほど転がり続けるボールは時折、黒い物体に変わる。

書き損じを鉛筆でグルグルと塗りつぶしたような黒い歪な毛玉が現れ、一瞬でボールの姿に戻るのだ。

今度は突然、軌道を外れて下に落ち、大きく上に弾んで塀を越える。

どこかへ行ってしまったかと思えば、また何事もなかったかのように転がるボールの光景に戻るのだ。

幼い頃この夢がとても恐ろしかった。

淡々として何もドラマはないが、目覚めた時に残る感覚と身体の強張りは間違いなく悪夢だった。

あの夢が果てしなく続き、いつかそこから逃れられなくなるような気がしていた。

オディロン・ルドンの版画を観た時、私は幼年期に恐れた悪夢を思い出した。

しかし不思議と、その気味の悪い空気を持った作品群に心惹かれた。

不気味な作品から目を背けたいはずなのに、視線を移せなくなる魅力。

笑っている蜘蛛、空に向かって上がっていく気球のような眼球、あどけない表情の骸骨など。

ルドンの作品には、奇怪なモノたちが登場する。

第一印象は恐ろしいが、じっくり観察すると少々滑稽な姿をしており、彼らは陰鬱だが攻撃的な印象はない。

悪というよりも闇のイメージに近いと思う。

オディロン・ルドンはフランス19世紀末に活躍した画家で、50歳頃までは先に挙げたような黒い奇妙な生き物を描いた版画等を数多く制作した。

次男の誕生を機に黒い表現を捨て、色彩に目覚めた。

本名をベルトラン・ジャン・ルドンというが、母親の通称「オディール」に由来する「オディロン」の愛称で知られており、本人も周囲も終生オディロンと呼んだ。

ルドンの父はアメリカに渡って財を成した人物で、20歳年下の女性と結婚し1835年に長男エルネストが誕生。

5年後にフランスに帰国して間もなく、次男となるオディロン・ルドンが生まれた。

彼は生後2日で乳母に委ねられ、家族が暮らすボルドーから約30キロも離れたペイルルバードに送られた。

そこには父親が購入した葡萄畑と荘園屋敷があり、彼は11歳まで荘園の管理人である親戚の老人に育てられた。

尚、当時のブルジョワ家庭では新生児を乳母に預ける習慣があったようだが、他の兄弟は両親の元でに育てられた。

陰鬱な作風から、母親に疎まれて捨てられた孤独な人物のように思われがちだが、ルドンが家族と離れて育った理由は別にある。

彼は幼年期に両親に連れられてパリの大聖堂を3回も巡礼している。

そこは奇跡の治療で知られており、両親は息子の癲癇を治すために訪れていた。

当時、癲癇という病気は下層階級の遺伝的疾患と考えられており、なるべくなら周囲に知られたくない病気だった。

そのため裕福なブルジョワ家庭の両親は息子の病気が治るまで離れた土地に隠そうとしたのではないかと思われる。

それは息子自身を世間の偏見から守る為だったのかもしれないし、一家の名誉を守る為だったのかもしれない。

実家に戻ると父親の薦めもあって建築科を受験するが、失敗してしまい絵画に集中するようになる。

絵画教室へも通ったが、アカデミックな教育に敵意を抱いて数か月で止めてしまった。

その後、版画家ブレスダンに師事して本格的に版画制作を開始する。

それから20余年は奇怪な生き物を描いた木炭とリトグラフによる黒の表現の時代となり、父親の死、結婚、生まれて間もない長男の死、思い出の地ペイルルバードの喪失や家族との訣別などを経験した。

1889年に次男アリが誕生した頃から、黒い表現は柔らかな色彩絵画に変化した。

ルドンにとって、父親は自分側の存在だったはずだ。

芸術の道を開いてくれたのも父親であったし、他の家族と比べて心の距離は近かったように思われる。

父の死後、彼はパリで一人暮らしを始めた。

家族との距離は、空間的にも心理的にも離れていった。

多くの文献や研究者が、陰鬱な作風は家族との不和に起因していると解釈しているが、自分が育った荘園の売却問題で揉めるまで母や兄と不和だったわけではない。

もし母親に捨てられたように思っていたなら、母の名前を取ってオディロンと名乗るはずがないだろう。

黒い表現には別の理由があるように私は思う。この後ルドンは荘園の件で裁判を起こして、家族と疎遠になった。

ルドンが描いた生き物は、有名なアニメ映画に出てきた真っ黒な生き物にどこか似ている。

寂しくて優しくて純粋な主人公の姉妹だけに見える不思議な生き物たちは、空き家や屋根裏に住んでいた。

ルドンの作品に登場する黒い生物も、少し怖くてどことなく滑稽な風貌をしている。

もしかしたらペイルルバード時代に、そんな生き物と出会ったのではないだろうかと私は想像してしまう。

彼は自分だけが見える不思議な生物を、ありのまま写生していたのかもしれない。

家族が荘園を売りに出そうとした時に猛反対したのは、闇に住む「彼ら」が暮らす家を守ろうとしたのではないか。

そんな風に考えると、作品から恐ろしさが消えて描かれたものが更に生き生きと見えてくる。

幼年期を思い返すと、私はよく熱を出した。

いつもの悪夢にうなされ、夢から醒めると熱をもった身体に冷たいタオルが心地良い。

いつもカラカラという水の中で氷がぶつかる音がしていた。

母は眠った娘を起こさないようにタオルをそっと額に乗せてくれた。

もし目を開ければ「もう少し眠りなさい」と囁かれることが分かっている私は、なるべく目を開けないように努める。

額のそれが温まる前に、母は氷水で冷やした新しいタオルに交換してくれた。

夜中に目覚めて再び眠りが訪れるまで、氷の音を聴いているのが好きだった。

一方、父はいつだって悪夢から逃がしてくれた。

氷水で冷やしたタオルをよく絞って、ゴシゴシと額や首筋を拭うのだ。

その冷たい刺激に私は何度も目を覚ました。

父は起こしてしまったことを詫びながら、汗で濡れたパジャマを着替えるように促す。

もしかしたら心配症の父は、娘を起こしたかったのかもしれない。

夢から救うためか、ほんの少し話をするためか。

私は父の期待に応えるように、それまで見ていた夢の話をした。

言葉にすると、怖かった感覚は嘘のように消えた。

もし父が起こしてくれなければ、私はあのまま悪夢に捕まっていたかもしれないと、今でも思っている。

私は夢の逃亡者で、父はその共犯者だった。

多くの人が、私のように幼い日に両親に看病してもらったはずだ。

今では半日持続する冷却ジェルシートを額に貼るだけで済むが、こうした商品は発売して20年と経っていない。

現在成人している人の親は、子供の熱が心配ならば傍について看病するしかなかった。

しかし、芸術家ルドンにはそういった記憶はないだろう。

熱を出しても両親はそばに居なかったのだから。

悪夢から醒めても、それを話す相手もいない。

少年はいつまでも夢の世界を引きずり続けただろう。

生後2日で一人暮らしというのは、あまりにも孤独すぎる。

寂しかった幼年期が作風に影響を与えているという解釈には、私も同感だ。

ただ私見では、家族との不和や捨てられた子供としての負の感情があの黒い作品群を生み出したとは考えていない。

それらは誰にも語れなかった不可思議な夢や怖い夢の産物だったように思う。

彼もまた夢の逃亡者だったのではないだろうか。

ペイルルバードを失った頃から、画家は黒い作品を制作しなくなった。

荘園の喪失は少年時代との別れでもあった。

暗闇の生き物はルドンのそばからいなくなってしまったのかもしれないが、代わりに画家は家族との幸せと豊かな色彩を手に入れた。

 

オディロン・ルドン(Odilon Redon)、本名ベルトラン・ジャン・ルドンBertrand-Jean Redonの家族との決裂にまつわる略年表
(1840年4月22日 フランス ボルドー ― 1916年7月6日 フランス パリ)

1835年 兄エルネストがアメリカで誕生。
1840年4月22日 ベルトランとマリー・ルドン夫妻の次男としてボルドーに生まれる。
生後すぐ里子に出され、11歳まで里親の元で育つ。
1845年頃 妹マリー誕生。
1851年 家族の元に戻ってくる。同年、弟レオが誕生。
1853年 末弟ガストンが誕生。
1855年 地元の画家に師事。
1862年 パリ国立美術学校(エコール・デ・ボザール)建築科を受験。口頭試問で不合格となる。
1863年 版画家ブレスダンと知り合う。
1864年 ジャン=レオン・ジェロームのアトリエに通うが、すぐに辞める。カミーユ・コローに出会う。
1865年 ブレスダンに師事し銅版画に取り組む。
1870年 普仏戦争が始まり、軍に召集される。
1874年 父ベルトランが他界。
1879年 石版画集『夢のなかで』が出版される。
1880年 12歳年下の女性カミーユ・ファルトと結婚。
1881年 木炭画の個展を開催する。
1882年 版画の個展を行い、名前が知られるようになる。石版画集『エドガー・ポーに』を出版する。
1883年 石版画集『起源』が刊行される。
1884年 点描画家スーラやシニャックらとアンデパンダン美術協会を設立し、アンデパンダン展を開催。
1885年 石版画集『ゴヤ頌』を刊行する。詩人マラルメと親しくなる。
1886年 長男ジャンが誕生し、半年で死亡。石版画集『夜』を出版。
1888年 石版画集『聖アントワーヌの誘惑』を刊行し、その第二集となる『ギュスターブ・フロベールに』を翌年出版。第三集が1896年に刊行される。
1889年 次男アリが誕生。
1890年 銅版画集『悪の華』を刊行。
1891年 石版画集『夢想』を発表。
1897年 画商ヴォラールがルドンの作品を大量に購入し、翌年彼の画廊で個展を開く。
1897年 90年代に葡萄園の経営難で売却の話が進むがルドンのみ反対。思い出の地は人手に渡る。
1899年 石版画集『聖ヨハネ黙示録』を出版。これが最後の石版画集になる。
1906年 兄を相手取った、荘園の管理不備の訴訟が決着。
1907年 兄エルネストが死去。
1909年 母マリーも他界。妻の妹ジュリエットも逝去。
1913年 アメリカのアーモリー・ショーに出品。
1916年7月6日 風邪をこじらせてパリの自宅にて76歳で死去。

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