消えゆくプリンシプル

プリンシプル……横文字はなるべく控えたいのだが、敢えてここはそうさせて頂きたい。なぜなら、日本語でピタっと当てはまる言葉が見つからないからである。

プリンシプルと言うと、白州次郎が浮かぶ。吉田茂宰相の側近、実業家、そしてまた”別の顔”と様々なところで活躍した人物である、白州正子の亭主と言えば明瞭か。

白州次郎はプリンシプルを多用した、復興期の日本を「残念ながら我々日本人の日常は、プリンシプル不在の言動の連続であるように思われる」と、彼流の「原則」あるいは「筋を通す」といった意味合いで使っていたようだ。

ということは、半世紀以上前から既に日本人は白州次郎言うところの”分別”を欠いていたということか。今更ながらだが「今どきの……」のフレーズはいつの世も変わらないと感じる。プリンシプルを翻訳すればいろいろ意訳はできるが、こちらのイメージするプリンシプルは流儀と解釈するとしっくりくる。

さて、なぜこのようなことを取り上げるかと言えば、女性の日常生活に変化が見受けられるからだ。尤も戦後六十数年前からだらけていると白州が揶揄したように、いまさらほじくり返しても仕方ないのだが、老婆心から言わせてもらう。

 

言葉の乱れ、そして簡略化、いつの時代にも母国語を面白おかしく使うのは世の常、目くじら立てても致し方ない。

気に掛かるのは電車での座り方の風景である。女性の脚の組み方に美醜を感じてしまうのだ。スマホを見続けるも良し、手鏡を携え化粧するも良し(感心はしないが)としよう。但し、脚だけは細心の注意を払ったほうが賢明のような気がする。行動の美学とでも言えば良いだろうか、ほんの数十年前までは……いやもっと前か、脚さばきを意識しきれいな座り方をしていたと思う。

ではこれをマナーかと言えばそうではない、座り方にあれこれイチャモンつけられてたまるかとお叱りを受けるのは必定、故に提案である。

時に欧米人の女性は外出する際に注意することがあるという、後ろ姿である。どんな容姿に見えるかとても気にするらしい、つまり見えないところに気を配る、正直驚きそして頷けた。尤も欧米人全員が意識している訳ではないと思う、ただ彼らの中にそのような美の基本が意識の中にあるということだ。

街中で外国人女性を見かけると、歩き方に見ほれることがある、早足でそれも背筋を伸ばし颯爽と歩く姿は見事であり美しい。日本の女性は顔や胸ばかりに気を使い過ぎ、後ろ姿を気にしないと知人のイギリス人女性が話していた。昔であれば着物がそうであった、まさしく後ろ姿に美を意識するものである。そのような中で、江戸しぐさなどと言う言葉も生まれたのだろう。

畳文化から椅子文化へと生活様式が急速に変わる中、その速度と共に言葉やしぐさも変異していったのかもしれない。言葉の軽さは人の所作をも変えてしまうほど威力を持つ、利便性を追い求めていくと必ず何かを失うのだ。これは現時代だけに限ったことではないが、なんとか美の希釈だけは留めたいものだ。

 

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