フィンセント・ファン・ゴッホ ~誰が画家を殺したのか~2

フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月30日オランダのズンデルトに生まれた。祖父や画商の伯父と同じフィンセントと名付けられた。死産の兄を除けば6人兄弟の長男で、2人の弟と3人の妹がいる。その中でも通称テオと呼ばれた4歳年下の弟テオドルスは、精神的にも経済的にも兄をサポートし、彼らの兄弟愛は映画化もされ大変有名である。
ゴッホはずっと絵を描くことは好きであったが、初めから画家を目指していたわけではない。成績優秀にも関わらず突然通っていた学校を自主退学してしまい、16歳から叔父の経営する大手の画商”グーピル商会”に勤めた。7年間働き解雇された後は、いくつかの職を転々としながら聖職者を目指す。祖父や父が牧師だったので、潜在的に聖職者への憧れがあったのかもしれない。無給で子供たちに勉強を教えたり伝道師として献身的に活動したりと、大変熱心だった。貧しい人々の生活に深く心を痛め、自らの服さえも彼らに与えて質素な生活を送っていた。しかし過剰な自己犠牲的な行動が裏目に出て伝道師の仮免許を剥奪されてしまう。夢を失った青年は、それからしばらくは親の仕送りに頼ってデッサンなどしながら目的なく過ごしていた。1880年、27歳にしてついに画家を目指すことを決心する。この頃から、弟テオが経済的に兄を支えるようになった。
短期間で絵画の基礎を学び、5年後には初期の傑作≪じゃがいもを食べる人≫を完成させた。好調なスタートに思えるが、実際にはそうでもなかった。この頃、帰省して以来なにかと衝突の多かった父が他界しており、妹には父の死の原因を作ったと責められ追い出される形で家からアトリエへ越した。さらに、完成した傑作は当時の友人や最愛の弟に受け入れられず、モデルを務めた女性の妊娠までもゴッホのせいだと村人から疑いの目を向けられる。
翌年、グーピル商会に勤めてパリで暮らすテオの部屋に転がり込んだ。テオの仕事のおかげで、エミール・ベルナールやトゥールーズ=ロートレックといった当時の画家たちと知り合う。1887年には彼らと共に展覧会を開いたが、ゴッホの絵が評価されることはなく、翌年アルルに単身で向かった。
南仏アルルでのゴッホとゴーギャンの共同生活は大変有名だが、本当はもっと多くの芸術家を誘っていた。ドガやルノアール、ピサロやスーラといった今では錚々たる面々である。しかし結果は、テオの仕送りで暮らせると聞いてやってきたゴーギャンただ一人だった。2か月後、ゴッホが娼館で耳切り事件を起こし入院し、ゴーギャンはアルルを去った。
退院後は精神不安定となり再入院し、サン=レミの精神病院に転院した。てんかんと診断され、鉄格子の窓の先に見える風景や病院の庭などを描いて過ごした。晩年の大気が渦を巻くような名作は、この頃描かれた。病状が回復すると、画家ピサロから紹介された医師ガシェのいるオーヴェル=シュル=オワーズに移った。
1890年7月27日の夜、胸を押さえてゴッホは宿に戻ってきた。彼は怪我について自殺したかったと答えるだけで詳細を語らなかった。翌日、ガシェから知らせを受けたテオが到着した。その時点では意識があったが、深夜に容態は急変し翌日未明に享年37歳で人生に幕を下ろした。
それから2カ月足らずでテオも体調不良で入院。精神病院へ転院し、梅毒と診断され、翌年1月に彼もまた短い人生を終えた。生前の献身的な援助や兄を追うように亡くなったことで、彼らの兄弟愛は世界中に広く知られている。

2011年に発売されたゴッホの伝記に、近く住んでいた兄弟の誤射により命を落としたという他殺説が書かれた。作者は20年前に画家ジャクソン・ポロックの伝記でピューリッツァー賞を受賞した人物だ。この新説はセンセーショナルではあったが自殺説と同様で決定的な証拠がなく、未だ真相は解明されていない。それならば事実が明らかになるまで私は、冒頭に書いたような事故説を信じたいと思う。様々な神学に通じていたゴッホが自殺を選んだというよりは、事故死だったという方が素直に頷けるのである。
私が思うに、ゴッホは多少デリケートすぎるが狂人などではなく大変心優しい人物だったと推測する。聖職者を目指したり、貧民街にショックを受けたり、怪我した母を献身的に看病したり、いつだって彼は優しかった。夫を失ったばかりの未亡人に求婚してしまったり、身籠って男に捨てられた淋病の娼婦へ真剣な恋心を抱いてしまったり、弱った人を放っておけない性分だったからではないだろうか。私の中のゴッホという人物は、純粋で心優しいが思い込みが激しく、相手の気持ちを汲み取ることが下手な人だ。一言でいえば、不器用な性格だ。だから彼の善意は周囲に迷惑がられたし、人々に誤解されやすく、親しい友人や恩人との衝突も絶えなかった。では何故、心優しいはずの人間が晩年は常軌を逸する行動をとったのか。その原因は、アブサンという酒にあると考える。パリでテオと暮らす少し前から愛飲するようになったと言われている。アルルに移った頃には一時的に飲酒を控えたものの、ゴーギャンがきた頃から再び悪習が戻った。アブサンは幻覚を伴う狂気を引き起こし、死に至らしめる危険性がある。近年その有害成分が判明するまで、強い有毒性から各国で製造も販売も禁止となっていた。しかし当時のフランスには多く流通しており、画家ロートレックやゴッホはこの酒を飲み続けた。
ゴッホの死の真相ついて、アブサンが人間に与える影響について、ゴッホの行動とアブサンの因果関係について、現在もそれぞれ研究と議論は続けられている。

これまで100年以上、ゴッホは精神を病んで自殺したと疑う者はいなかった。その死は社会が招いた悲劇だという考えを支持する人が多く、社会が殺したのも同然という考えすらあった。また治療した医師たちの知識不足や誤診が死を招いたとして、医療事故のように言う人もいる。それら多くは、生前に1枚しか絵が売れず、自らの正当な評価を知らぬまま死んでいった画家への同情や反省から発せられた声だろう。ゴッホのような悲劇を招かないためにと、現在活動する芸術家を積極的に扱う美術館も誕生した。彼の死は、間違いなくその後の芸術を大きく変えた。しかし盲目的に自殺だと信じるより、酒の抜けたゴッホ生来の性格を想うと事故だったと信じてみたくなるのだ。もし顔見知りの兄弟が誤射したとしたら、弱き者を救いたいと行動してしまうゴッホは彼らについて口外しないだろう。自力で宿に戻り、事故については一切答えず「自殺したかった」と偽り、痛みと共に迫る死を甘受したはずだ。

地面から見上げるゴッホは、逆光で少年たちの顔が見えなかった。眩しい青空を背景に二人のシルエットが黒く抜けていた。並んで寄り添う兄弟の影に、テオと自らを重ね合わせた。ありがとう。命がけで彼らを守りたいと心から思った。

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