アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 46

ムンバイ湾に独立国家の海外に開かれた窓として、訪問者を送迎する2つの歴史的建造物

~ インド ムンバイ インド門 & タージ・マハル・ホテル ~

第二次世界大戦後、アジア諸国は次々に独立を遂げていった。各々の国に横たわる困難に立ち向かいながら自国の自治を勝ち取った。中でも中国に次ぐ大国のインドの独立に向かうヒストリーは、少し乱暴な比喩を使うと、極めてドラマティックなものであった。マハトマ・ガンジーによる非暴力不服従、サティヤーグラハの運動はあまりに有名だ。

自治権を失い、圧政に苦しむインド人は19世紀末になって、各地で反乱が起こすようになった。1919年には第一次世界大戦へのインド兵の動因を条件に、戦後のインドの自治が約束された。約束を固く信じたインドは120万にも及ぶ兵がヨーロッパに派遣したのだが、戦後になっても自治を認められなかった。

イギリスの裏切りを許すことなどできないインド人の抵抗運動は、規模を拡大し激しくなる。そして、第二次世界大戦直後に起こった1946年のカルカッタの虐殺が、イギリス政府に決定的な打撃を与えることとなる。翌年1947年7月にイギリス議会は、ついにインド独立法を可決した。200年を遥かに超える植民地支配に終止符が打たれ、イギリスからの行政関係者や軍隊は、続々と本国に向けて引き返して行く。そして1948年、最後まで駐留を続けた兵隊が、ムンバイ湾に面し堂々とした構えをもったインド門を潜って、イギリスに帰国した。

インド門はインド最大の経済都市ムンバイの南部、ムンバイ湾に臨むフォート地区に建造されている。門の下の広場は、かつてはインドを訪れるイギリスからの要人たちの歓迎式典が行われた場所であった。1911年に、イギリス国王のジョージ5世とメアリー王妃の来印を記念して建造されたのがインド門だ。

ジョージ・ウィテットがパリの凱旋門をモデルとしつつも、高さ26メートルの門には玄武岩が使われ、インド古来のグジャラート様式によって設計された。植民地時代には、数多くのイギリスからの要人を迎え入れた門は、インドが独立を勝ち取った直後には、イギリス人を故郷に見送るための門となった。海を背景とする門は、独立国家から眺める海外の窓となったのだ。

広場の西側には、もう一つ歴史感を漂わせる建造物が建つ。インド最大の富豪、ジャムシェードジー・タタが建てタタジ・マハル・ホテルだ。インド門はイギリス人が設計したものだが、タージ・マハル・ホテルは、資本も設計もインド人の手によるものだ。1903年の完成だから、インド門よりも古い。

建物全体の構造はシンプルではあるが、白色と薄緑色による外壁と、赤色のドーム状の屋根が特徴的だ。中央の大きなドームにはヨーロッパのゴシック様式によるキリスト教寺院を思い起こさせる。4隅のドームにはイスラム教寺院のモスクの雰囲気が滲み出ている。そして、客室に設けられた出窓からはインド古来の様式を感じとることができる。様々な建築様式をとり入れながらも、均整と調和を失うことはない。

ホテル内にはタタ自身が、何度もヨーロッパへ渡って調達した最新の発電機やエレベーターなどが設置された。パリのエッフェル塔に魅せられ、塔を支える巨大な鉄骨を買い求めたという。その鉄骨は今でも舞踊ホールの天井をしっかりと支えている。シンガポールに建つラッフルズ・ホテルと肩を並べ、「アジアの星」と賞讃されている。今ではインド経済を牽引するムンバイの海を見渡す広場には、独立国家インドを象徴する2つの歴史的建造物が肩を並べ、特徴的な景観を築き上げているのだ。

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