待つVol.2

ベルギーで職を見つけた、小さな出版社だと書いてあった。パリで2年間の職歴しかなかったが彼の才能をこの出版社は買ってくれたのだった。
私はその手紙の住所を頼りに彼の住む街へ向かった、嬉しさがこみ上げてくる。ブリュッセルの街もパリと同じように建物は無残な姿だったけれど、空一面がアズール色に染まり私を迎えてくれた。手紙に書いてあった電話番号を、一つひとつ確認するようにダイヤルを回したのだった。
見知らぬ国で人を待つというのは、とても不安であり物悲しいものがある。
待ち合わせたカフェに彼が駆け足でやってきた、口ひげを生やし眼鏡を掛け、少しだけふくよかになった感じがした。
パリのカフェで語ったように時間を忘れるくらい喋り続けた。

私はブリュッセル郊外にある彼のアパートで数ヶ月暮らした、その月日はとても濃密で毎日が満ち足りた充足感で一杯だった、このまま彼の下で暮らしたいと思ったがパリに帰らなければならないことが起こってしまった。
母が入院生活を余儀なくされ、電話ではかなり重傷だと叔母が話していた、頭部を強打し集中治療室で治療を受けているという。原因は分からない、叔母は私になにかを隠している気がした、とにかく帰らねば。
家族は母と私だけ、父はナチから拷問を受け牢獄で亡くなっている、ユダヤ人をかくまったという理由だけで殺されたのだ。
だから、母の面倒を見なければならない。本当はブリュッセルへ行くことさえも許してもらえなかった、それを私は母の反対を振り切り彼の下へ行ってしまったのだった。母は意識も回復せぬまま眠るようにベッドで寝ている、後悔という深海の淵から抜け出せないような感覚が襲う、十字を何度も切った。

母の横でうたた寝をしている私に叔母が口を開いた、頭部の損傷は自殺が原因だと教えてくれた。手首を切りその衝撃で母は階段の手すりから転げ落ちたのだという。夫を失い母娘二人だけの生活であったのが、ブリュッセルへの逃避行、生きる術を母は失ったのだ。母を見つめる、深い皺が苦悩の人生を映し出している、愛した男はこの世にいない、そして娘までもが……なんていう不条理だろうか。

彼から一週間毎に手紙が届く、ゆっくり読むことも、返信することも出来ない日々が続いた。私の1日は近くの書店でアルバイトし、夕方には母の待つ病院へ出かけそこで毎晩睡眠を取るという生活、何一つ手が付けられない状態だった。日曜だけが安息日、教会へ行き祈る。その帰り何年かぶりにカフェ”華”に立ち寄った、束になった手紙を読む、テーブルに置いた便箋が風で飛ばされそうになった。
甘い言葉が散りばめられていた、一瞬微笑みが私の内に舞い降りてくる、徐々に感情が私を追い立て、息が出来ないほどの寂しさが頬を伝う。
彼に手紙を書いた、母が重篤であるということ、そのために働かなくてはならない、母が元気になるまで待っていて欲しいと。私の一方的なそしてあまりにも現実的な手紙を私は書いてしまった。

私は来る日も来る日も彼の手紙を鶴首で待った、どれくらい月日が経っただろうか、彼からの手紙がやっと届いた。便箋は一枚だけ、それも数行だった。
仕事が忙しいということと、田舎のアパートから会社近くのマンションに引っ越したこと、まるで業務連絡のようだった。待っていて欲しいという私の願いは、便箋には一言も書いてなかった。

それからというもの、必死で母の介護に明け暮れ、雪を、雨を、風の強い日を何度も味わった、気がつくといくつもの年月が過ぎていった。
彼からの手紙は届かなくなった、私は半ば諦めていた、彼の直向きな文面になにひとつ応えられない私なのだから。母は少しずつではあるけれど快方へ向かっていった、鼻にチューブを入れての栄養補給、それも取れて、懸命にリハビリをしている母。
私はアルバイトから正社員に登用され、日々の生活には困らなくなっていた。その頃に手紙が届いた、彼からだった。私はペーパーナイフももどかしいくらい、指で封を切った。
その中味は、結婚したという知らせだった。
哀しくはなかった、哀れみは残酷そのものになるから。

あれから半世紀以上が過ぎ、私は誰一人向き合う人と出合うことはなかった。
私はいつか彼と再会したブリュッセルのカフェに出かけて行った、その日は運悪く雨が降っていた。
私は知らなかったが、ちょうど私がブリュッセルのカフェに出かけた頃、彼は”華”にいたと言う、それは彼からの何十年ぶりかの手紙で知った。それも奥様の命日に華へ出かけてきたのだという。
私は誰をここで待っているのだろう……。

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