シモキタというトポス

雑駁な街、人の異臭が漂う街、そんな街が若い頃は好きだった。
駅周辺は桑海の変甚だしく、今や掘削作業でシモキタは街の総入れ替えを
計るのに必死である。
ほんの十年ほど遡れば北口側には、トタン張りの闇市場のような店が処狭しに並び、押すな押すなの盛況ぶりであったことは言うまでもない。
その闇市もすっかり消え、街は生気を失ったかのようだ。

とは言え、街に活気がないと言えば嘘になる、三々五々どこからともなく
若者がこの街に集まり、どこかへ消えていく。それが演劇鑑賞なのか、買い物なのかは分からない、一体どれほどの若者がこの街に住んでいるのだろう。
いわゆるシモキタネーティブの大半は年配者で占め、若者は少ないであろう。
理由は明瞭だ、不景気であっても家賃は高く、そう易々と住める街ではないのである。
中には、路地を歩くと昭和初期に建てられたと思しき古びた木造建築が僅かだが残っている、その建物もカフェとやらに化けている始末だ。
下町と山の手が混在した街と謳っているものの、賑やかなのは街中心だけであって、少し足を伸ばせば閑静な住宅街が拡がっていて、ある種人を寄せ付けない街なのだ。
その街で足繁く通ったのがマサコだった、大袈裟に言えば大人になるための通過儀礼のような場所だったかも知れない。

56年間に渡り下北沢で営業を続けてきた「ジャズ喫茶マサコ」は4年前に姿を消した。店名は、初代のオーナーの故奥田政子さんの名前から付けたという。この喫茶店はトタン張りで出来ていて、店内は椅子もテーブルも統一感がなく、長椅子のソファにはあちこちにほころびが見られ、湿気臭とカビとタバコの匂いが店内を包み込んでいた。店内を見渡すと屋根を支える柱が数本あり、麻ひもでぐるぐる巻きにされた細い柱はタバコのヤニで黒茶色に変色し、天井も囲炉裏で燻されたようなねっとりとした黒褐色に染まっていた。席に座ると、必ずアメリカ産の煙草が一本、お通しのようにサービスされた。提供されるのは嬉しかったが、その煙草は私の嗜好品からは外れていた。
店内で掛かる音楽はジャズとシャンソン、知らないアーティストをここで覚えたりもした。スピーカーから流れてくる曲を聴きながら、ミルクティ一杯で何時間も居座り続けた。この時代、渋谷や新宿のジャズ喫茶は私語禁止が定番で、喋ることは御法度だった。そこへくるとマサコは自由にお喋りが出来、友人たちと憂さを晴らすのに好適な場所だった。オーナーはいつも猿を抱えていたような記憶がある、なぜ猿を飼っていたのか定かではないが、猿はジャズが好きだったのだろうか。ふくよかで、いつも笑顔が絶えない深紅のルージュが似合う方だった。閉店し翌年にオープンすると聞いていたが、いまだその話しは浮上して来ない。

消えたのはバーもそうだ、唯一シモキタの往事を彷彿とさせるものは煎餅屋の「玉井屋」お茶の「茶苑大山」や「つきまさ」位か。
シモキタという街は、新店ができたかと思うと消えていく、三ヶ月持てば一生持つという神話がある、本当かどうかは別にして。景観は日々激変していく有り様だ、そんな中、H劇場の一階にあるVVは、まるでサブカルを佃煮にしたような景色で、今やシモキタという街を表しているのではないかそんな風に思えてくる。
そう、この街には昔、映画館が三カ所あった。茶沢通りにある交番の前のスポーツクラブが「オデオン座」、北口のゼンモールが「北沢劇場」、今のみずほ銀行の裏手には「グリーン座」、その隣も「北沢エトワール」という映画館があった。全て三本立ての映画である、今どき三本立て等という言葉も死語となってしまったが。当時のことを覚えている人も、もはや少ないだろう。あとは鰻屋ぐらいか……人それぞれに街の思いは違う、反映と衰退を繰り返す街の貌、それで良いのだと思う。ただこれだけは忘れてはならない、街を創るのは政治家や企業ではない、人なのだと言う事を。

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