内包する狂気と肉体

エスパス ルイ・ヴィトン東京で、ドイツ出身のアーティスト、トーマス・バイルレのインスタレーションや映像作品が9月1日まで開催されていた。ユーモアを織り交ぜながら近代都市の様相を描いた「Monuments of Traffic (交通のモニュメント)」だったらしいが気付くのが遅く残念なことをした。
記事を読み、バイルレとは全く有り様は違うが、時空を越え幻想世界を描く山口晃を想起した。江戸時代の町人が高層ビルで窓ふきをしていたり、路地裏で侍がけんかをしたりしている洋と和の空間が渾然一体となって、狭間のミニマルな空間の中で妙な感覚を覚える作品だ。

そのようなことをつらつら考えていると、昨年その同じ場所で偶然近くを歩いていたとき見たエルネスト・ネトの展覧会を思い出したのだった。
ブラジル人アーティスト、エルネスト・ネト……このアーティストのことを何も知らずにエスパス ルイ・ヴィトン東京を潜ったのである。さもしい話しだが、無料だったのだ、だから入館した。
確か1階から3階までが、ルイ・ヴィトンのコレクションだったかと思う。ドア口や店内にいる店員たちの視線が気に入らない、いつも感じることだがブランドを取り扱う日本人たちの何処か傲慢にも通ずるものを感じてしまう。その様は小動物を食い千切る勝ち誇ったライオンの如く居丈高に見え、オーバーな身振り手振りで客を迎える、貧乏人よ入ってくるな……と、眉をひそめたくなるくらい厭な気持ちに陥るのである。
足早に奥にあるエレベーターで7階まで上がった、会場は全面ガラス張りで設えてあり、イメージしたほど広くはなく、第一印象は児童館の遊具広場かと見まがうほどのインスタレーションだった。
豪華な解説書には1980年代後半より作品の発表を始め、伸縮性のある薄い布地や香辛料などのユニークな素材を使い、有機的な立体作品やインスタレーションで知られていると記してあった。エキシビションのタイトル「Madness is part of Life(狂気は生の一部)」には、現代社会における政治的な正しさや生産性が、狂気を隠蔽してしまっている状況を指し、本当の「正しさ」は存在するのか、むしろ狂気こそが私たちの中や周囲に宿る情熱そのものかもしれないのではないか、とネトは提起する。

彼が言うように世の中は狂気を隠蔽している、まさしくその通りだと思う。狂気こそが文化を創り出すエナジーであり、それを社会は堅牢な筺の中へと封じ込めている気がする。殊に我が国がそうだ、仲良し倶楽部のような日本に於いて狂気は不要のものであり、危険だと見なす。しかし考えて頂きたい、凡人は生活や社会を脅かさない代わりに、何も産み出さないのだ。
狂気を指すものそれは殺人ではない、漲るようなシンパシー、そこから優れた絵画、建築、音楽、文学、科学等が産まれ、それを私たちは歓喜を上げて賞賛する。それを宿した者たちは皆奇才であり変人の気質を持ち、どこか狂気を含んだ人間たちなのだ。言葉はきわどいが、狂気を導く者こそ新たな文化が生まれてくる、と考える。

コンテンポラリーアートのエルネスト・ネト、作品は、柔らかく、有機的に思えたが正直それほどのこちらの襞にぐっと来るものは感じなかった。
連作「Balanço」に属する巨大なインスタレーション「A vida é um corpo do qual fazemos parte(われわれは生という体の一部)」は男の陰部を思わせる。漁師たちの仕掛ける投網のようなカラフルなライクラ生地を使ったネット、まるでパニエのような膨らみがありそれが空間に釣り上げられていた。ネットの中にはプラスティックボールが数え切れないほどに入っていて、ネットとネットの間に掛かった橋に人が歩くと大きく揺れる、ネトはそこに意味を持たせたかったようだ。
「重さというのは私にとって重要なもの。自分自身の肉体や存在も重さで感じるし、重さの感覚が私は誰かを教えてくれる。そうでなければ自分自身を見失うと思うよ。その他に自分自身を感じる方法はないのではないかな?」とネトは言う。
残念ながらその場に居合わせなかったため、直接ネトの言葉を伺うことは出来なかった。五感を意識としたインスタレーション、ネトが言う狂気がどこにあったのだろう。網に内包されたプラスティックの”玉”によって生じる身体のバランス感覚……失礼ながらどこかの遊園地でも見た気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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