ジョルジュ=ピエール・スーラ ~秘密の遺伝子~

「幽霊屋敷?」
自らが驚くほど間の抜けた声に、女は慌てて口元に右手を当てた。一流ホテルには不似合いな軽装で訪れた上、大きな声まで出してしまっては品位を疑われる。女は髪を掻き上げる仕草と共に周囲をそっと見回したが、幸い他に客はおらずマナー違反は許されたようだと頬を緩めた。
二人はラウンジで1杯目のカクテルを愉しんでいた。いつも男はソファーに深く身を沈めたままで今週の出来事を掻い摘んで話す。今夜も部下の失態やサッカー選手の移籍について語り、銅製のマグカップがテーブルに置かれた時には駅前の工事が話題だった。それらに続くのが怪奇譚とは、さぞかし意外だったのだろう。女はコリンズ・グラスを両手で抱え、前のめりになって続きを促した。

男は、営業でいつも通る道の空き家に人の気配がすると言った。そこは駅から5分ほどだが周辺は一方通行の細い坂道で、都心とは思えないほど古い豪邸が多い。問題の空き家も御多分に漏れず年期の入ったお屋敷で、今まで遅い時間に通りかかっても窓に明かりを見たことはなく、雨戸も閉ざされていた。この家の高い石塀の切れ間にある数寄屋門は見事だが、最も目を惹くのは巨大な蜘蛛の巣だという。ここ数年その木戸は開かれていないのではないかという印象だった。しかし一昨夜、屋敷の窓に揺れる明かりを目撃した。不思議なことに門扉には、いつも通り立派な蜘蛛の巣が張り巡らされている。
「暗いのに、蜘蛛の巣が見えたのって変じゃない?」
女の問いに男は、数時間前の夕立を湛えた蜘蛛の糸が街灯に照らされて綺麗だったからだとは答えた。お茶が焦げるような芳ばしい香りと、風音が読経のように聞こえたと続けた。男はマグカップを力強くあおると、赤いビロード張りのメニューブックに手を伸ばしながら「妙な話でしょ?」と、なるべく低い声で言った。
女は神妙な顔で「すごく気になる。裏門はあるのかな?それとも本当に幽霊屋敷?今度行ったら裏を確認してきて」と応じた。
まもなく二人の関心はシガー・コーナーから出てきた和服の女性に移っていたが、女は思い出したようにフランスの画家の話を始めた。
「幽霊屋敷っていえば、有名な画家のお父さんがオカルトっぽいの」

その画家の父アントワーヌには、奇妙な噂があった。家族を寄せ付けずに別宅の地下室で謎のミサを行っているというのだ。アントワーヌは資産運用で大きな利益を得て退職するまで、下級官吏として働いていた。厳格で冷静だが信仰心は厚く、宗教版画の蒐集に熱心だった。毎週火曜日は家族や友人と食卓を囲むために家に帰り、それ以外は11キロほど離れた場所に持つ小さな家で過ごした。彼は地下室を改造し、「集会」と称して近隣の住民を集めた。「集会」について詳細は不明だが、庭師に手伝わせて何らかのミサを行っていたのではないかという話もある。
画家の父は義手であった。夕食の席に着くとおもむろに義手の先に刃物を取り付けて、手際よく肉や野菜を切り分ける。その様子は恐ろしかったが、家族は当たり前の光景として何事もない様子で食事を続けた。火曜の夕食に招かれた画家の友人は、彼の父親について畏怖の念を隠さずそのように証言している。

息子の名は、ジョルジュ=ピエール・スーラ。先述の友人は、シニャックである。19世紀に活躍した新印象派を代表する画家であり、モザイクのように小さな点を連ねて描く点描という技法を確立したことで有名である。そしてスーラは父親譲りの秘密主義と孤独な人物として知られている。
父が不在で、兄と姉は一回りも年上だったため、子供の頃のスーラは母と過ごす時間が長かった。大人になっても頻繁に、夕食を摂るために母の許に帰ったという。とても良い親子関係に思えるが、しかし息子は共に暮らす女性についても授かった子供についても秘密にしていた。母が息子の内縁の妻と子供の存在を知らされるのは、なんと死の2日前であった。
この父子には、秘密という遺伝子があったのだろうか。

「気味が悪いほど秘密主義の親子だと思わない?特にお父さんの噂は、ちょっと気味が悪い。カルト教団っぽいし、地下室から夜な夜な悲鳴がぁ~ってホラーな想像したくなる。息子の方は、CG顔負けの正確さと計算されつくした作品を描いた画家だから、研究熱心で職人気質と表現してあげたくなるけど……。でも親子揃って私生活まで秘密がいっぱいっていうのは、ちょっと嫌。大っ嫌い」
女はため息で言葉を締めくくった。
「ちっちゃな子が喧嘩した時の友達の悪口みたいに言うね。その画家のこと、本当はそんなに嫌いじゃないんだ?」
男の問いかけに、女は黙って細長いグラスの外側に付いた水滴を指先で拭って螺旋状のレモンの皮を眺めていた。優美で緻密な作品を遺した画家として才能を認め、彼の作品に心惹かれることは答えなくとも男に伝わった。

スーラは、幼い日に伯父からスケッチを薦められたことをきっかけに早くから画家を志した。息子たちの夢に父は協力的で、兄は劇作家を、スーラは画家を目指した。裕福な両親のお蔭で経済的な不安を知らずに、彼は美術学校で基礎から学んだ。しかし友人と訪れた印象派展で新たな表現を見て、古典ばかり模写する学校を辞めることを決意した。その後は独自に色彩や筆触の研究を続け、ほどなく新印象派を代表する表現者となる。シニャックと共に独立芸術家協会や新印象派グループを率いたが、彼は徐々に孤立していった。きっかけは1888年の誤った記事だった。新印象派の功績を周囲に奪われないかとスーラは危惧しているという内容が掲載され、彼の立場を悪くした。翌年にマドレーヌと出会って同棲を始めると、友人たちを避けるようになり、更に次の年にも行き違いがありグループ内に居場所を失う。彼は孤独に制作を続け、1891年3月ジフテリアにより32歳でこの世を去った。

疑心暗鬼に陥った秘密主義の画家はアトリエのドアを堅く閉ざしたとか、友人を避けて孤独を好んだとか言われている。果たしてそれが事実だろうか?
彼は無口で諍いを好まない性格だった。スーラらを印象派展に参加させるためにピサロが保守的な画家たちを説得していた際にも、口論になればスーラは身を引いて新聞で顔を隠していたという。カフェでの会合に必ず出席していた物静かで穏健派の彼が、懐疑心や嫌悪感で人々を避けたのだろうか。それとも気の弱さと謙虚さがそうさせたのだろうか。友人たちの証言は後者の控えめな人物を想起させる。

「さっきから点描のこと、変な風に呼んでない?」
3杯目にホワイト・ルシアンを注文すると、男が言った。
「色彩光線主義?同じようなことだけど、スーラはそう呼んで欲しかったんだって。点描は筆遣いだけを指すけど、色彩光線主義は色と光の効果を研究した表現だから」
「やっぱり、その画家のこと好きだよね」
女はソファーに凭れたまま否定せずに笑った。そして新しい酒が届くと「ルシアンと付くカクテルだけは飲めないな」と言いながら、一口だけ横取りした。
「なんで?甘くて、つい飲み過ぎちゃうから?レディー・キラーって言われているよね。過去に酔い潰れたんでしょ」
「一時ね、最後の一杯としてブラック・ルシアンにハマっていたの。それである時、終電の時間に慌ててグラス半分以上も一気に飲んで駅までダッシュしたんだ。そしたら自己最大震度を体験した。何時間もグラグラが続いて、翌朝もまだ浮かんだ感じだった。しばらくコーヒーすら怖くなったほどトラウマ」
「珍しいね。唯一悪酔いしたカクテルか。手軽に酔える感じで、俺は普通のルシアンもブラックもホワイトも好きだけど。じゃあ、いつも初めての店でホーセズ・ネックを頼むのは何か理由あるの?」
「それを言うなら、そっちも必ずモスコじゃない?私はお寿司屋さんのコハダって感じ。ブランデーで作るかウイスキーで作るか、レモンが上手に剥けているか、その店のレベルを計っているつもりなの。それにウィズアウト・キックって頼めば、ノンアルコールで作ってもらえるから便利だし」
愛馬を褒めるように、グラスに入った螺旋状のレモンの皮を指先で撫でながら女が答えた。通常はブランデーをジンジャーエールで割るカクテルだが、最近ではウイスキーで作る店も多くある。
「そっちはなんで、いつも一杯目はモスコ?このホテルはマグで提供するけど、やっぱりお店の格調を計っているの?」
「違うよ。確かに銅製のマグカップは本格的で嬉しいけど、それは関係ないよ。理由は2つあるかな。一つは、販売戦略の素晴らしさ。モスコミュールを流行らせた人たちを尊敬しているから好きなんだ」
「うんちく?」
「そう、逸話。ウォッカとマグとジンジャービアを売りたい男たちが知恵を絞った話。モスコミュールを持っているバーテンダーの姿をポラロイドカメラで撮っては、別の店のバーテンダーにその写真を見せて流行っていると信じさせたんだ。それを繰り返し行って、人気カクテルにさせたらしいよ」
「賢い人たちね。で、もう一つの理由は?」
「それは思い出があるから。でも、それは秘密。さっきの画家と同じで、男の秘密だよ」
男は生クリームを少し残して3杯目のグラスを置くと、席を立つ合図した。女は仕方なさそうに腰を上げて「秘密については次回ね。あと幽霊屋敷の調査報告もよろしく」と囁いた。言葉が終わるなり二人の視線は憧れのシガー・コーナーに注がれていた。それはあたかも人々の関心が移ろいやすいことを証明するかのように素早かった。たまに一人でここに来て、奥で葉巻を燻らしていることも男の秘密である。微かに洩れてくる薫香に、二人は揃って鼻孔を膨らませて微笑んだ。

ジョルジュ=ピエール・スーラ(Georges-Pierre Seurat)の
人との出会いまつわる略年表
(1859年12月2日 フランス パリ― 1891年3月29日 フランス パリ)

1859年 パリの裕福な家庭の次男として生まれる。兄と姉、4歳下の弟の4人兄弟だった。
1862年 マジャンタ街110番地に転居。
1870年 パリ・コミューンの鎮圧まで、一家はフォンテヌブローに疎開する。
1875年 パリ市立デッサン学校に入学し、エドモン・アマン=ジャンと出逢う。
1878年 アマン=ジャンと共にエコール・デ・ボザールの絵画科に通う。目立たない学生で試験の成績は80人中47番だった。
1879年 アマン=ジャン、エルネスト・ロランと共同でアトリエを借りる。三人で訪れた印象派展に強い衝撃を受け、デッサン中心の美術学校をやめることを決意。
1880年 様々な著作を研究して理論的知識を深める。 1年間の兵役中に2冊のスケッチブックをデッサンで埋めつくし、パリに戻ると実家の近くにアトリエを借りた。
1883年 デッサン《アマン=ジャンの肖像》が人生で唯一サロンに入選。並外れた技量を絶賛される。《アニエールの水浴》のための習作に着手、多数のデッサンや習作を描く。
1884年 大作《アニエールの水浴》はサロンに落選し、アンデパンダン展に出品。 この絵を高く評価したシニャックと知り合い、親交を深める。
1885年 最後となる第8回印象派展に《グランド・ジャット島の日曜日の午後》を出品し、周囲に新印象派への関心が生まれる。
1887年 印象派展の参加時と同様に、ピサロの尽力でナントの美術展に2点出品。アトリエを訪れ作品を購入してくれた詩人の計らいで、シニャックと共にブリュッセルの「二十人展」にも参加。クリシー街のレストランで開かれた展覧会でゴッホに出会い、アマン=ジャンとともに彼のアトリエを訪れる。シニャックの先導で、ピサロ父子などの点描画家が集結し新印象派グループを結成。
1888年 テオ・ファン・ゴッホがスーラのデッサンを1点入手。 この後、テオたちが主宰の展覧会に出品。
8月23日 『パリ』紙上にアレクサンドルが発表した論評がシニャックの誤解を招き、新印象派の画家たちと摩擦が生じる。
1889年 マドレーヌ・ノブロックに出会い同棲を始め、友人たちを避けるようになる。両親や友人に住所も知らせず、妊娠中のマドレーヌと転居する。
1890年 息子ピエール・ジョルジュ誕生。アンデパンダン展に11点を出品するが、評価は思わしくなかった。フェネオンの発表した『シニャック論』がスーラについて一切触れておらず、画家は抗議の手紙を送る。わだかまりを残し、グループ内でも一層孤立し離れていった。
1891年 マドレーヌが第二子を懐妊。憑かれたように《サーカス》の制作に没頭する。
3月26日 過労から伝染性の扁桃腺炎をこじらせ、ジフテリアを併発したと思われる。
3月27日 マドレーヌと息子ピエール連れてマジャンタ街の母の家を訪れ、紹介する。
3月29日 32歳で逝去。
3月31日 墓地に埋葬される。息子のピエールも数日後に同じ病気で死亡。
5月3日 シニャック、リュス、フェネオンが、スーラのアトリエで遺品目録を作成。マドレーヌは、そのうちの何点かを遺産として受け取る。いさかいの未、マドレーヌはスーラ家とは絶縁した。

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