アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 49

中国4000年の歴史の中で約500年間にわたって国家を治めた宮殿

~ 中国 北京 紫禁城 1 ~

中国は現在では13億人を越える人口を抱える世界最大の国家だ。北宋時代には1億を超え、18世紀に2億、19世紀には4億人を突破したと言われ、歴史的にも常に世界最大の国家であり続けた。この膨大な人口を治めるのは、現在では中国共産党だが、4000年の歴史の中で何度となく政権が変わった。巨大な国家を統治するためには、行政機構も大規模とならざるをえない。

首都の北京市の中心部には、とてつもない規模の宮殿が残されている。紫禁城は、明の成祖永楽帝が1421年に南京から北京への遷都を行って以来、1912年2月12日の宣統帝の退位による清朝滅亡まで宮殿として使われた。何と約490年もの長い間、国家の中枢機関として機能したのだ。その間にこの宮殿に居住し、国家の頂点に君臨した皇帝は24名にも及ぶ。明の時代には10万人の宦官とともに、9000人の宮女が住んでいたと伝わる。

南北961メートル、東西753メートル、面積約725000平方メートルの敷地内を幅52メートルの堀の筒子河が取り囲む。筒子河の外と中では別世界が広がる。中は支配者の宮殿、外は一般庶民の生活空間だ。筒子河の内側には底厚10メートル、頂厚6メートル前後で、高さ12メートルの強固な城壁が宮殿を守っている。宮殿の中からは、庶民の生活の様子などはかり知ることできようはずがない。紫禁城は統治すべき国民からは隔離された存在であったのだ。

現在でも中国の報道の際にしばしばディスプレイに映し出される天安門が、紫禁城の南の玄関となる。その奥に端門と午門が堂々とした姿を構え、この門を潜ると、紫禁城の内部に入ることになる。これ以外には、東に東華門、西に西華門、北に玄武門の6つの門があるばかりで、広大な敷地面積の宮殿でありながら、限られた場所からしか出入りができないような構造となっている。宮殿に暮らす人々にとって庶民は招きいれるべき存在ではなく、大きな距離を隔てながら接する対象でしかなかったのかも知れない。

「紫禁城」の名は中国の天文学に従い、北極星を皇帝に擬え、地上に「紫微垣」を再現したことに由来する。「天子は南面す」の言葉に従い、敷地内の北側に皇帝の宮殿が置かれている。

広大なエリアに夥しい建造物が建つ紫禁城の全景を見渡すには、宮殿北側に広がる景山公園が最適だ。公園の中の小高い丘から全景を捉えることができる。それは、この世のものとは思えない宇宙空間だ。壮大な規模に目を見張るばかりだ。統一感をもって建ち並ぶ建造物は、均整のとれた構造美をもっている。何度も改築されたのだろうが、基本的には15世紀の設計だ。当時の建築技術の高さが窺い知れる。太古の黄河文明の時代から中国は世界の文明をリードし、日本は中国から進んだ技術や文化を輸入していたのだ。当時の技術力を比較すれば、日本の技術など肩を並べることなどできなかったのだろう。国家権力を隅々にまで行き渡らせた紫禁城を眺めていると、日本はよく日清戦争に勝利したものだと不思議に思える。

紫禁城の全景は快晴の日に眺めたいものだ。空気が透き通っていれば、各々の建物の輪郭がはっきり見え、宮殿の構造を正確に掴むことができる。しかし、何度も繰り返し訪れることができない海外では、偶然の天候での景観を眺めるしかない。快晴の日もあれば、曇りの日もある。空気が曇って空中の水蒸気に煙る紫禁城の姿は、輪郭が鈍くなるため幻想的に見える。中国が産み出した固有の画法、水墨画を眺めているような錯覚に襲われる。

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