アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 50

北京市の中軸線上に建つ紫禁城と宮殿の正面玄関

~ 中国 北京 紫禁城 2 午門・太和門 ~

現在でも中国の首都、北京市の中心部に面積約725000平方メートルの壮大な規模で残る紫禁城の正面の位置に、堂々とした姿の午門が正面玄関として聳える。紫禁城に訪れた人にとっての入口となり、この門を潜れば明、清代の皇帝の宮殿、紫禁城に入ったことになる。現在の観光客の入口は、明、清代においても宮殿の入口と機能していた。

午門は、宮廷と庶民の暮す土地を象徴的に区分けしていたのだ。門の外と中では全く別の世界が広がり、午門を潜れる人は莫大な人口をもった中国の国民の中では、ごくごく一部に過ぎなかったことだろう。皇帝をはじめ多くの役人達は、午門から外に出ることはなく、一生庶民の生活を目にしない人も数多くいたことであろう。

「午」は一つの文字でありながら、多岐にわたる意味を文字の中に内包している。方位では南、時刻では正午、五行では火、動物では馬を一文字で表現している。紫禁城の方角から見ると、宮殿の南の端に位置し、南門と門の名前を置換することも可能だ。中国での伝統的な考え方、「天子は南面す」の言葉をシンボル化した門でもあるのだ。北極星に擬えられた皇帝が、宮殿の北側の玉座に座り、南に暮らす国民を統治したわけだ。

午門は逆向きのコの字の形をしており、門の構えの中に広場が形成される。門の中央には9間の正桜が聳え立ち、東西には鐘桜と鼓桜を備えている。創建は、明時代の1420年、永楽18年のことと伝わるが、現在の建物は、清代の1647年と1801年に改築されたものだ。

紫禁城の南面中央の午門から、北面中央の神武門は北京の子午線とも言うべき中軸線が作られる。この中軸線上に、宮殿のエリア内に前三殿、大三殿、後三宮などの紫禁城の重要な施設が一直線に建ち並ぶ。玉座は中軸線上に据えられ、皇帝が天下の中心に位置することを視覚的に表現している。この中軸線は宮殿のエリアを超え、北京の市街地にも重要な意味をもたせている。紫禁城の南には、この線上に、皇城の天安門、内城の正陽門、外城の永定門が、北には鼓桜、鐘桜が、中軸線の延長線を作り上げる。この延長線は北京市内に全長8キロにも及ぶことになる。

北京の中軸線上にある午門を潜れば、紫禁城に入ったことになる。遥か彼方の正面には2番目の門、太和門を望み2つの門の間には、広大な広場が形成されている。白色の石畳の広場には静寂感が漲り、時間の流れが止まっているような錯覚に襲われる。広場の中央には、金水河と呼ばれる人造の川が、穏やかな水を湛えている。川には5本の内金水橋が架けられている。紫禁城の中の宮殿に向かう人は必ず、この内金水橋を渡ることになる。5本の橋の内、中央の橋を渡ることが許されたのは、皇帝ただ一人であった。

広場の北に建つ太和門は、紫禁城の外殿への入口、即ち宮殿の玄関の役割を担う。1420年に創建された当時は奉天門と呼ばれていたが、皇極門を経て太和門に改称された。創建当時は中国で最も大きな木造りによる宮殿建築の門だったが、度々の火災によって徐々に規模が縮小してしまった。現在の姿は1889年に再建されたものだ。

太和門の門前には一対の精巧な青銅獅子像が置かれている。清代、乾隆帝時代の彫刻の最高傑作と賞讃されている。東側に右前足で鞠を踏む雄獅子、西側に左前足で子獅子を踏む雌獅子が、宮殿に入る人々を見守る。太和門では、明代には御門聴政が行われ、皇帝が臣下の上奏を聞いた。3方向に作られた階段を上って太和門を潜れば、いよいよ紫禁城の心臓部、宮殿のエリアとなる。

関連記事

アーカイブ

ページ上部へ戻る