インドネシア、バリ島に音楽、舞踊、絵画といった分野でバリ文化に多大な影響を及ぼしたドイツ人アーティスト・ヴァルター・シュピース(1895年9月15日〜1942年1月19日)という画家がいた。
この画家を知ったのは20年ほど前、バリ特集の企画していたときだった。
未だ海外へ行ったことのない私にとって少し窮屈な企画であり、バリに興味を持つどころか突っぱねたい気持ちで一杯だった。
そのような事情の中でリサーチがスタートした。
インドネシアに関する資料を漁っている内に、このヴァルター・シュピースに出くわしたのだった。
彼の描く絵はどこか遠近法を主体としたナイーフ・アート(素朴派)のアンリ・ルソーの絵と重なり、プリミティブで詩的な絵画に思えた。
きっとそれは私だけがそのように感じただけであって、いやルソーの絵とは全く違うよと見知らぬ人から言われるかも知れない。
それがシュピースの絵とのファーストインプレッションだった。
20年前の企画は頓挫し、中途半端な状態のままお蔵入りとなってしまった、そして今回その企画がまた浮上したのである。
浮上したからと言ってそれが必ずや実るとは限らない、確率は何万分の一に等しいのだから。
彼は帝政ロシアの裕福な家庭に生まれたが、第一次大戦の戦争に巻き込まれ家族と離ればなれになってしまう。それがきっかけでロシアのウラル山脈の収容所に送られ、解放の後、父の故郷ドイツへ帰還し画家としてデビューした。
だが慣れていたはずの都会の生活にはなじめず、彼の心はウラルの原野で触れた純朴な遊牧民たちに思いを馳せ、都会暮らしから逃れたい気持ちで一杯だった。
そんな折、知り合いの医師が撮った写真に彼は釘付けになった。
密林を駆け回る褐色の原住民たち、都会にはないある種の無垢なまでの大らかさがそこに垣間見え、不思議な磁場に引き寄せられていった。
シュピースはいくつかの試練の中、念願の楽園の島、バリにたどり着くのであった。
しかし、そこは彼の予想し得ない命運が待ち構えていたのだった。
シュピースが29歳の時、神々が宿ると言われる原始の島に足を踏み入れた、それも王家の招きによるものであった。
楽園への招待は必ずしも神秘だけの世界だけではなかった、調べていく内に、彼が描く絵よりも彼のバリでの活躍振りにただならぬものを感じたのだった。
元々バリの絵は宗教儀式を模したものやインドの神話などが多く、平面的な絵でインドネシアの影絵芝居、ワヤンスタイルをモチーフにしているのが殆どだった。
そこで、バリのアーティストたちはシュピースが描く遠近法に少しずつ影響されて行き、バリのアーティストたちが描く世界は日常生活や風景へと意識が注がれていった。
シュピースは彼らの熱意にほだされ芸術集団(ピタハマ)を作り、その作品を果敢に海外へと紹介し、それまで楽園で留まっていた絵画をシュピースは精力的に取り組んでいった、それは紛れもなく革新的なものだった。
シュピースはさらにバリの舞踏ケチャにも彼流の色を付けアレンジした、バリ文化の象徴であるケチャは、土俗的な要素を取り入れ神を讃え、舞いそして歌う。
そのパフォーマンスを見たシュピースが新たに手を加えていったのだった。
シュピースにとってバリでの生活はまさに楽園そのもので、建築・音楽etcとあらゆる文化に繋がるものを彼は創作していった。
だがその至福の時間は限られていた、押し迫る第二次世界大戦である。ドイツがオランダを占領した後、インド政府に敵国人として逮捕されジャワ島へ収監されてしまう。そのような中、日本軍がインドに攻め入りセイロンに移送される途中で、シュピースは日本軍の爆撃に遭いインド洋上で非業の死を遂げてしまう。
シュピースは絵画に及ばず、楽園の地に幾多の文化遺産を遺し散って行った。
そのひとつであるアトリエ、宮殿の東にあるチャンプアン渓谷を見下ろす斜面に建てられたアトリエは壮観だ。
バリ伝統手法による彫刻や茅葺き屋根に、西洋の機能性を取り混ぜたアトリエ、その建築法は今世紀のリゾートホテルの基礎となったと言われている。
かのチャップリンやノエル・カワード(俳優・作家・脚本家)などが足繁く通い、ヨーロッパのサロンのように利用したという。
シュピースがバリで享受した貴族のような生活を揶揄する人間もいるが、彼がいたからこそ楽園というキャンバスが生まれた。
現代バリ芸術の父シュピース、彼のさらなる夢はインド洋海底深く眠っていることだろう。