アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 52

明代の建築技術、運搬技術、彫刻技術が作り上げた宮殿

~ 中国 北京 紫禁城 4 中和殿・保和殿 ~

1421年に明の永楽帝が建造して以来、清代の1912年の溥儀の退位までの約490年にわたって、中国の政治の表舞台として機能したのが紫禁城の太和殿だ。皇帝の即位大典、大婚、皇后冊立、皇帝の誕生日の儀式、科挙の成績発表、大将の出征、毎年の春節や冬至節などの重大な国家行事の際には、皇帝は太和殿の中央に姿を現した。

儀式に臨む皇帝の控えの間が、太和殿の奥に建つ中和殿だ。明代の1420年に創建されながら、2度の火災に見舞われ、現在の建物は1627年に再建されたものだ。当初は華蓋殿と名づけられたが、中極殿に改称された後の清代の1645年に中和殿と呼ばれるようになった。建物の規模はそれ程大きなものではないが、正方形に近い構造をもっている。鮮やかな赤色の列柱に、皇帝にしか許されていない黄色の琉璃瓦を屋根に用いた建築物だ。

皇帝は中極殿で執事の官員の朝拝を受けた後に、輿に担がれて厳かに太和殿に向かったのだ。太和殿で行われる国家行事のときばかりでなく、中極殿は天壇や地壇などで執り行われた祭祀の前にも重要な役割を果たした。祭祀で使う農具や種子の点検を行い、祝板に書かれた祭文の確認を行った。

太和殿で行われる国家行事の際は、外朝の広場に居並ぶ臣下たちの視線は太和殿の皇帝に集中する。皇帝はさぞや威厳をもった身なりをしていたことだろう。皇帝が身支度をしたのが、中極殿の奥に建つ保和殿だ。中極殿同様1420年に創建されたが、清代の乾隆時期に改築された。当初は謹身殿と呼ばれていたが、嘉靖年間に建極殿、清代の順治年間に保和殿と改称された。

保和殿の最も大きな役割は、皇帝が大典の前に衣装や装身具を整えることだが、他にも様々な用途に活用された。清代には旧暦の大晦日や1月15日に、少数民族の王侯や大臣を招いて宴が催された。さらに、乾隆年間以降には科挙制度の中で、最高クラスの試験である殿試が保和殿で実施された。科挙には3年のサイクルで、全国各省が行う郷試、中央礼部が行う会試、皇帝が宮中で行う殿試の3段階があった。殿試では、皇帝自らが出題した政策論を24時間以内に書き上げるというものだ。殿試に合格した者は太和殿で発表され、進士となる。中でも最も成績の優れた3名は各々、状元、榜眼、探花と呼ばれるようになり、政策の中枢を担うことになる。皇帝を頂点とする縦割りの統治機構をもちながら、皇帝を支える人材こそが国の宝であったのだ。

太和殿、中和殿、保和殿を中心とするエリア一体は外朝と呼ばれ、その奥には皇帝が私生活を送る内廷が広がる。保和殿から外朝の裏門の乾清門に向かう漢白玉石の3層の台座が続く。紫禁城で最も大きな石による造形物だ。この大石雕は長さ約16.5メートル、幅約3メートル、厚さ約1.7メートルで、重さは200トンに及ぶと推定されている。北京から50キロも離れた房山から紫禁城まで運ばれた。

北京から房山に向かって500メートル間隔で井戸を掘り冬季を待ち、井戸水を道の表面に打水をして凍らせた後、氷の上を滑らせて運搬した。約2万人の民工と1000匹の驢馬が作業を行い、約1ヶ月かけて紫禁城に設置されたと伝わる。巨大な大石雕には精緻なレリーフが施されている。雲の中を活き活きとした姿で舞う9匹の龍が刻まれ、雲龍石彫と呼ばれている。皇帝は龍の上を輿に乗って外朝と内廷を往復したのだ。

紫禁城は建物の建築技術ばかりではなく、明代の最高レベルの運搬技術、石彫技術を巧みに活用することによって完成したわけだ。

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