北欧ジャズベーシストの重鎮、森 泰人氏との出会い

以前、コラムで紹介した”フィヨルドから流れる、ジャズ”でジャズベーシストの森泰人氏を紹介したことがあった。スウェーデンはイェーテボリを拠点に彼は演奏活動をしている。久しぶりにメールが届いた、北欧は11月頃ともなると日照時間も一段と短くなり、かなり厳しい時季に入るのだという。また2月頃に入ると、陽の光が足らないこともあって色の白いスウェーデン人の中には、眼の下辺りがパンダの様なクマが出来るらしい。人によっては可愛くもあり、一方では……と言うこともあるだろう。彫りが深いというのも、時に難儀するものである。
そろそろ”TRIO”のメンバー(市原康・福田重男・森泰人)で秋の国内ツアーが始まる頃だと思っていたら、今年はBohuslän Big Band(ボーヒュースレン・ビッグバンド/スウェーデンの国と西ヨータランド県の出資で運営されている音楽振興財団&ミュジーク・イ・ヴェストにより運営)の活動が忙しく、来日は難しいとメールにあった。
彼と知り合うきっかけは代官山の「Lezard」でライブの招待を女性編集者から受けた時だった。ちょうど某局で北欧にからんだ企画を検討している時で、こちらとしてはタイミング的にピッタリだった。彼女は森氏と以前から親しかったので、早速彼女の力を借り企画取材を試みた。
彼女とライブハウス前で彼の来るのを今か今かと待っていた、だが彼は約束の時間を過ぎてもやってこない、ライブまで時間は迫っていた。すると既に彼の顔は出来上がっていて、申し訳なさそうに我々の下へやってきたのである。話を聞くと、知人たちから近くのレストランで歓待を受けていたらしいのだ、演奏まで残り10分、殆ど取材らしきものは潰えて名刺交換程度で終わってしまったのだった。
イェーテボリへ帰国すると森氏からメールが届いた、自己紹介に始まりスウェーデンでの活動を詳らかに書いてきてくれた。彼の音楽に対する愚直なまでの探究心、そして精神性が文面から顕著に見て取れた。
偶然にも同じ年だった、それも学舎まで同じだったのである。同じキャンパスにいながら一度も顔を合わせたこともなく、卒業後に編集者の引き合わせによって出合うとは妙な心地だった。

既に彼は高校時代から渋谷のライブハウスで、「高校生混成コンボ」という名称で演奏をしていたと言うから驚いた。私立と都立高のジャズ好きの高校生がコンボを組みジャムセッションする、彼に言わせると一種の親睦会の様なものだったと言う。その頃の私と言えばゲラ刷りビラ配布に明け暮れ、ヌーヴェルバーグの映画に傾倒し、届かぬ果実をもぎ取るために狂喜乱舞していた時期だった。あの坂本龍一も高校の屋上でアゲハの旗を振っていたというではないか。

森氏とは互いにクロスすることはなかったが、メールの中でひとつだけ共通するものがあった、それはジャズ喫茶だった。その時代は今と違って、個性豊かな喫茶店があちこちに点在していた。
ジャズ喫茶とは無縁だが、あの時代をシンボライズするのはやはり新宿の「フーゲツ(風月堂)」だろう、たしか今の三越新館辺りであったかと思う。諸々のセクトが集まる拠点であり、十代で浴びたカウンターカルチャーは刺激的だった。近くにはクラシック喫茶「らんぶる」(いまだ実在)、三越裏の「青蛾」などに通ったものだった。青蛾の由来は、詩人の金子光晴の「蛾」から引用したと聞いている。
森氏と共通するそのジャズ喫茶に足繁く通った場所は、殆ど渋谷で占めた。道玄坂「オスカー」ここは学生のジャズバンドのライブが有名な喫茶店だった、彼はここで演奏もした。他にはスウィング、デュエット、百軒店奥にあった音楽館、そして一番通ったのがジニアス。狭い階段を降りていくとスピーカーから大音量で耳をつんざくほどの音が流れていた。地下は湿気臭と煙草で充満し、見渡せば客はアシッドな顔つきでコルトレーンやエリック・ドルフィーなど難解な曲に耳を傾けていた。

あれから時は瞬く間に過ぎて行った、同様に渋谷のジャズ喫茶も時代の趨勢の如く消えていった、あるいは名を変え生き残ったもの……眠らず息づいている。ジャズは新宿が似合うと誰かが言っていたが、渋谷にもヘビーでモノクロームな音が流れていた。
次回の国内ツアーは来年3月上旬から24日を予定している、と森氏からメールが届いた。それまで彼のHeres That Rainy Dayを聴いていよう。

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