レーシングドライバー片山右京、コックピットからの足音

「オギャー」と生まれてから果てるまでに、人はどれ位歩くのだろうか。3〜80歳までと仮定しよう、約169725000歩。平均50cmの歩幅として、84862500m /84862.5km。地球一周の距離は、約40000kmと言うことから、2周を少し越えたことになる。数字は雄弁に物語る……母胎からの第一声に始まり、初誕生(1歳の記念)を祝し一升の米を背負い覚束ない足でよちよち歩く、正に人生の第一歩のスタートだ。その時発した足音はどんな音だっただろう、パタパタ、ペタペタ、ドタドタetc 親はつたない歩きに一喜一憂し、我が子の誕生を噛みしめ、赤子はそこから音を意識し人生を歩んでいく。足音は個性豊かだ、コツコツ軽やかに歩く人もいれば、すり足でノロノロ歩く人もいる。最近若い人がすり足で歩く姿が顕著の傾向にあるが、美しいとは言えない。身体を支える足、足音は顔そのもの、大袈裟に言えば人間の内部まで透けて見えてしまうくらいだ。足音には様々な物語がある、以前その足音にまつわるラジオ番組を作ったことがあった。中でも片山右京のエピソードは出色で、その一コマを紹介しようと思う。

F1を引退しても尚、登山、自転車での日本縦断など現役アスリートとして活躍し続ける片山右京。F1で足音を感じられることがあるかと問うと、歩くわけではないのでと前置きがあって、レース場では掻きむしられるほどの爆音だが、実はコックピットの中は意外と静かなのだそうだ。あの爆音のイメージはない、音を置き去りにしてどんどん次の空間に突き進み、マフラーから後ろに音が出ているので身体は前に行き、音は後ろに置いていく感じだという。ヒール&トゥ、ギアの回転に合わせてアクセルを少し煽り、ギアの回転に合わせてシフトダウンしていくテクニック、その時ペダルとブレーキ踏むと、カチャカチャというアクセルペダルを蹴飛ばすような音が聞こえてくるのだそうだ。
F1は想像のスポーツだと右京は語る。たとえば5周後の自分のポジションや車の状態とか、その瞬間に掌でフロントタイヤ、腰とか背中で後ろのタイヤの路面との摩擦を感じて自分は滑っているかまたは加速しているか、絶えずペダルと一体になって想像するという、まさに足がセンサーになっているのだ。
ルマン24時間やパリダカールラリーは、人生の中の一瞬のできごとであるが、時として永遠に終わらないのではという恐怖を感じるほど長く感じる時があると言う。
真夜中の砂漠や夜中のユノディエールのルマンのストレートを350キロで1分近く走っていると、存在そのものがコックピットから消え、まるで幽体離脱したかのような気分に陥り、それを俯瞰で見ている感じらしい。

0.1ミリぐらいペダルのストロークが違うと、すぐさまおかしいと感じるのだそうだ。基本的にアクセルのストロークは約5センチあるかないかで、750〜800馬力ともいわれるエンジンをコントロールしている、ペダルを踏んだか踏まないかの中でエンジンは雄叫びを上げる。それを雨の中でコントロールすると、手を机の上にポンと置いている状態なのか、少し力を入れたのか、ギュッと押したのかの違いぐらいで、エンジンは敏感ゆえに150〜200馬力ぐらいまで吹き上がってしまうのだそうだ。

誰もが片山を怖いものなしと思われているが、実は山でもレースでも臆病だと言う。本当に速く走ろうと思うなら、繊細にしかも丁寧に走ることが鉄則。コーナーで踏ん張っているときに息を止め、ストレートで加速した時に唾を呑み込むと肺に入ってむせたり加減速を繰り返す。たとえば唾液ひとつでも、ブレーキングすると口の中から出ようとする、とにかく一瞬一瞬が油断を許せないのだ。普通の人がいきなり300キロ超えたら当然視野が狭くなり恐怖となってパニックを起こすが、レーシングドライバーは日常の世界であり緊張することはない、それは普通にテレビを見たりする感覚と同じなのだという。極限のスピードであっても、縁石に物が落ちているのも見えるし、観客席に友人が来ていることも分かる、それがレーシングドライバーにとっては当たり前であり、決して特別なことではないと彼は語ってくれた。
見えるのは視力ではない、それは長年積み上げてきた練習の賜であり、感覚がそうさせる。その一方で鼻があまり良くないと言う、普通の匂いは分からないがタイヤの焦げる匂いやブレーキの焼ける匂いとか、オイルの温度が上がってきたりすると、本能としての嗅覚が眼を覚まし、鳥のような嗅覚となって信号を発するのだと言う。
コックピットを降りた右京は言う、”レーシングドライバー”の肩書きはいまだ棄ててないと、それが唯一生きてきた証であり矜恃なのだと笑顔で応えてくれた。

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