アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 53

外朝と内廷をつなぐ門の正面に建つ紫禁城の心臓部

~ 中国 北京 紫禁城 5 乾清門・乾清殿 ~

約490年にわたって世界最大の大国、中国を統治した皇帝が政務を行いながら私生活を送った巨大な宮殿の中は、政治の表舞台と皇帝の私生活の場がくっきりと分けられている。宮殿の南側には、太和殿、中和殿、保和殿が堂々たる姿で建造され、これらの建物を中心として外朝が形成された。その最も奥の位置に乾清門が構えられ、その南側が公式の場、その北側は皇帝が私生活を送るエリアとなっている。日本の江戸城に譬えるならば、乾清門から北のエリアが大奥ということになるだろう。

乾清門を潜るときの皇帝の思いは、如何ばかりであっただろう。外朝から内廷に入るとき、内廷から外朝に出るときに、自分の立場が大きく変わるため様々な思いを胸に門を潜ったに違いない。今では紫禁城に訪れた人は外朝から内廷に入る順路で、乾清門を潜ることになる。

乾清門は明代の1420年、永楽18年に創建され、清代の1747年に改修された。外朝から続く石畳の広場の先に3つの入口を備えている。広場から門に繋がる石階段の間には、一対の獅子青銅像が設置される。門の右側の雄獅子は足で鞠をもてあそび、左側の雌獅子は子供をあやしている。皇帝がプライベート空間に入る直前に、公務を終えた安らぎを感じる趣向が凝らされているわけだ。両方の像の表面には金メッキが施されるばかりでなく、門の左右の壁に沿ってずらりと並ぶ防火用の貯水槽も金メッキで覆われ、神々しさは失われることはない。

門の左右に続く壁は赤色で塗られ鮮やかな色彩となっているが、黄色と青色のまだら模様の屋根には落ち着いた雰囲気を漂わせている。外朝と内廷をつなぐ門ではありながらも、清代には乾清門では、皇帝が諸大臣の政務報告を受ける御門聴政が行われた。

乾清門から内廷に入ると、その正面に建つのが乾清宮だ。明代の1420年、永楽18年に創建され、清代の1798年に再建された。創建以来清代の康熙年間にいたるまで皇帝は乾清宮で暮らし、日常の政務を行っていた。乾清宮こそが中国統治の心臓部であり、皇帝がここで下した決断が、乾清門の南の外朝で公開されていたわけだ。清代の雍正帝のときには寝宮が養心殿に移されたが、内廷式典は乾清宮で変わることなく開催され、皇帝は臣下や外国使節とここで謁見を続けた。建物内部には27部屋に及ぶ寝室が設置され、皇帝は毎日部屋を変えて睡眠をとったという。皇帝は暗殺される危険性をはらんでおり、身を護るために工夫をしていたわけだ。

乾清宮は創建当初から不変の役割を担う場所であったが、清代末期には建物を利用してユニークな用途が付加されることになった。宮殿中央の宝座の後方の壁には、「正大光明」の扁額が掲げられている。この文字は順治帝の筆によるものだ。日本語の四字熟語の順序が逆だ。この扁額の裏側の空間には雍正帝の時代から、人名を記した詔書を納めた匣が保管されるようになった。詔書に書かれた人名は、皇位の継承者を指名したものだ。雍正帝は皇位継承の際に正統性に疑惑をいだかれたために、「太子密建の法」による皇位継承方法を考案した。皇帝は皇位継承者の名前を記して「正大光明」の扁額の後ろに保管する一方で、同じ詔書をもう一部認め手元に置いた。

皇帝が崩御すると遺体を納めた棺は、扁額の真下に安置され弔いの儀式が行われる。この儀式の際に扁額から匣をおろして、2つの詔書を照合し次期の皇帝が確定されたのだ。乾清門から乾清殿にいたるエリアは、紫禁城の外朝と内廷を結びつつ、中国政治の重要な役割を担い続けた。

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