アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 54

歴代の皇帝を支えた皇后が日常生活を送った内廷

~ 中国 北京 紫禁城 6 交泰殿・坤寧宮 ~

明代から清代にわたる長い期間、紫禁城が中国政治の舞台となった。その広大な敷地は機能的に分けられ、固有の役割をもつ建物が整然と配備れている。最も南側は国事的な儀式が行われるオフィシャルエリアで、南から順に太和殿、中和殿、保和殿が並ぶ。この外朝の最も北に乾清門が建造され、そこから北側が皇帝のプライベート空間となる。その最も南側には乾清殿が建造され、ここで皇帝が日常生活を送った。

乾清殿の北に隣接する内廷の中央に交泰殿が建つ。創建は明代の1420年、永楽18年だが、現在残っている建物は清代の嘉慶年間の1797年、嘉慶2年に再建されたものだ。創建以来、この交泰殿で新しい皇后の冊立の儀式が行われた。皇后の公式行事の場としても活用され、元旦や冬至の他、皇后誕生日の千秋の三大祝日には祝賀行事が開催された。また清代の乾隆帝以降は、古代の周王朝が25代にわたって栄えたように清朝も25代続くことを願って、25種の玉璽が交泰殿に保管されるようになった。

交泰殿は巨大な宮殿が並ぶ紫禁城の中では小ぶりなものだが、建物内部の天井は格子状となっており、藻井と呼ばれる細かな彩色が施されている。藻井は外朝の太和殿にも採用された中国伝統の装飾様式だ。宮殿中央の宝座の上の「無為」の額は康熙帝の筆によるであり、その横の板屏風には乾隆帝が「交泰殿銘」の文字を記した。

宮殿の東側には「銅壷滴漏」と呼ばれる巨大な水時計が設置されている。2500年も前に考案された古代中国の時計だ。時計は小さな穴があけられた3つの木箱で構成され、この木箱に水を満たし穴から落ちる水滴を利用して時を測るのだ。一番下の箱の上部には、手に目盛りをつけた人形が設置され、水位によって上下する目盛りを読むことによって時刻がわかるという仕組みだ。精巧に作られた時計でありながら、乾隆帝以降は使用されなかったという。

その代役を務めたのが、宮殿の西側にある高さ5メートルの機械時計の「大自鳴鐘」だ。この時計が示す時刻が宮中標準時間とされ、紫禁城で行われる様々な行事の開始時間から終了時刻などを決めた。

交泰殿の北側には坤寧宮が建つ。明代の1420年に創建されて以来、皇后が居住する正宮となった。現在の建物は、清代の1655年、順治12年に盛京の清寧宮を模して改築されたものだ。清代以降は、坤寧宮で皇帝と皇后の婚礼の儀式が執り行われた。最後の儀式は、清代最後の皇帝、宣統帝溥儀と郭布爾皇后婉容の結婚式であったが、それが行われたのは清朝滅亡後の1922年であった。

宮殿の東端には新婚の皇帝と皇后が、初夜を過ごす寝室が準備されている。室内の壁は鮮やかな紅色で塗られ、天井には双喜の提灯が掛かり、皇帝と皇后を祝福した。でも、成婚前に皇帝となっていたのは、幼くして皇帝の座についた同治帝と光緒帝のみであるため、寝室を利用したのは2人だけであったことになる。坤寧宮に現在陳列されている品々は、光緒帝の成婚のときのまま保存されている。

また、宮殿の西側は祭礼の場所となっていた。大祭礼や毎月1日と15日には、司祝というシャーマンによって満州族のシャーマニズムの儀式が行われ、皇帝と皇后も揃ってこの祭礼に参列した。

乾清殿、交泰殿、坤寧宮を併せて後三宮と呼ばれている。この三宮の両側には、皇帝の衣類を納める端凝殿、書籍や文具などを保管する勤殿、皇子たちの勉強部屋としていた上書房が配置されている。後三宮を中心とする内廷で、皇帝と皇后は政務と私生活の両方を行い続けたのだ。

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