テレビという、筺はいつまで続くのか

テレビは、ネットやスマホの魅力にすり替えられその存在意義を失くしてしまっている。テレビ離れが騒がれる中で制作者たちは未来のテレビについて何を考え、何を創ろうとしているのだろうか。
視聴者と送り手の間にはかなりの温度差を感じる、とくに年配者からの不満がこの数年続出している。各現場が怠惰になっていると言うわけではない、それぞれに使命感と思惑と利害勘定のなかで血眼になっているのは昔とさして変わらない。がしかし、制作者たちは創ることに対しての歓びを感じてないようにも思える。
テレビのジャンルは、報道・ドラマ・ドキュメンタリー・バラエティ・音楽・ワイドショー・料理・スポーツ・子ども番組とザックリ分けるとこのようになる。カテゴリーは殆どテレビ黎明期から変わってはいない、変わったのは制作者たちの思考と出演者たちの顔ぶれだ。またその流れで行くと、女子アナの声というかトーンが低くなったのが顕著である、そしてニュース原稿読みの速度も速くなった。いつからそのような体制になったか分からないが、以前は声のトーンも高く、そしてニュース原稿読みもゆっくりだった。昔は300字前後が一般的だったのに対し、今や1分間におよそ300~350字が当たり前になってしまった、時代がそれだけせせこましくなってきたということか。
ご存知のように、テレビ番組は製作会社が9割製作していると言っても過言ではない。今やテレビ局は経営に主眼を置き、製作会社に完パケ(企画〜編集までの完全パッケージ)を委ねているのが現状だ。そんなことから優秀なディレクターも局からではなく、製作会社に打って変わった。あの国営テレビ局も言うまでなく、製作会社がかなりの数を占めている。

視聴率第一主義は今もなお健在だ、なにがなくても視聴率、お笑いブームが到来すれば金太郎飴のようにいつでも同じ顔が登場し、笑えないゲイニンたちの独壇場となる。人気があれば人は集まりレーティングが取れる、まるで神話のような幻想を抱き今に至っている。そのような背景の下、年配者たちからは、おかしくもない連中をなぜテレビに出させるんだと、冷笑を浴びさせられることもある。全く以て同感だが、そのような状況の中でスポンサーも代理店も番組を苦笑しながら観ているのではないだろうか。

昭和30年(NHKは昭和28年)に産声を上げたテレビは、国民を釘付けにした。それがどうだろう、レーティングは下る一方だ。尤も銀行員の物語や素潜りのドラマなどに人気が出ると各局大騒ぎで取り上げ、小判鮫商法とやらでそのタレントを出演させ視聴者を呼び込む、あざといと言うほかない。タレントとは本来、才能のあると言う意味に使われるのだが、これを使うのは日本ぐらいだ。
それでも年配者は食いつかない、役者がひどい、まともな芸人を出せ等々、巷の声は大変厳しく、そしてその言葉はとても痛い。2050年には老人の人口が四割も占めると言う、その頃のテレビはどうなっているだろうか。

伊丹十三が”テレビとは中継である”と言ったことがあった。テレビの持つ力とは進行形で進むリアルタイムの映像こそが本来の姿だと言うわけだ、確かにそれも一理あるが、それだけではないと思う。テレビはくだらない物もあり質の高いものもある丼のようなものだ、何を創っても良い、だが、素材とレシピを間違えると、手を付けられなくなり視聴者はさらにどん引きするだろう。素材とレシピ、つまりシステムの総入れ替えであり、巨大化した構造を変えない限り、未来のテレビに希望は見えてこない。

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