クロード・モネ ~一夫多妻のスネカジリ~

カットした髪が鼻先に付いて、痒い。

鏡に映った自分は、銀色のテルテル坊主のような姿で前髪を梳かされている。とても痒い。

ケープの中から手を出して掻きたい衝動に駆られるが、あと少しの辛抱だ。

アシスタントの青年がオレンジ色のボトルを置いたから、ヘアワックスで整えたら終了だ。

もし今ケープから手を出せば、ニットの袖口に毛が刺さって後でチクチクする。

目に見えない短い髪が棘のように肌を刺激して、手首を真っ赤にするだろう。

その方が厄介だから私は両手を堅く握り合わせて我慢した。

左隣から流れてくるパーマ液の臭いに神経を集中して、鼻から広がる痒みをやり過ごすことにした。

この店のパーマ液は、ブルーベリーのような甘く柔らかな香りがする。

ふんわり漂うそれは、思いのほか鼻孔に心地が良かった。

印象派が好きだという女性は多い。

この美容院のスタイリストさんもモネ好きで、なかなか展覧会には行けないのだと以前嘆いていた。

鮮やかで美しい色彩、綺麗な花々、穏やかな風景、飾る場所を選ばない優美な作品がモネには多いと私も思う。

そんな風に同意を示すと、美容師の彼女は作品に溢れる作者の優しさや誠実さ、家族愛や優雅な生活にも惹かれると語ってくれた。

こういう時、聞き流すべきか否かを迷ってしまう。

私のイメージでは、モネはそれほど誠実ではないし、50歳近くまで極貧を生き抜いた人物だ。

完全に誤解であれば指摘すると思うが、全てが誤りでもないので何も口にしなかった。

それは切った髪が鼻に落ちた時の痒さに似ていた。

我慢している間は非常に気になるが、衝動に負けて動けばチクチクする見えない棘を引きずることになる。

鑑賞者は作品に何を感じても間違いではないというのが持論だ。

作者をどれほど美化して想い描いたとしても良いと思うのだ。

だから私は、ケープの中で両手をしっかり握り合わせる。

モネは、1840年にパリに生まれた。

父アドルフは食料品・雑貨店を営んでいたが経営不振で、息子が4歳の時に妻ルイーズの兄の下で働くために一家でル・アーブルに転居した。

モネはこの海辺の町で育ったお蔭で、生涯に何度も海を描いている。

少年時代は勉強よりも似顔絵や戯画を得意としており、近所の画材屋の店頭に彼の戯画は飾られて1枚10~20フランで売られていたという。

この画材屋の前オーナーが画家ブーダンだったと言われており、ブーダンに屋外での写生を誘われるきっかけとなった。

17歳の時に母ルイーズが他界し、その後は父の妹である叔母が母親代わりとなり、彼女のおかげで絵画も続けることができた。

19歳で美術学校の受験するためにパリへ向かったモネ青年は、不合格だったため親に無断でパリに居残ろうとした。

そしてここから、モネは貧困と父を相手に戦いを繰り返すこととなる。

父親からの仕送りはすぐに絶たれた。

モネの父は困窮を訴える息子に渋々仕送りを再開して、何度となく仕送りを絶った。

父と不仲な時期や口論となった後は、仕送りが絶たれて画家は生活苦を嘆いた。

それでも息子への愛情がなかったわけではないのだろう。

兵役中に貧血で半年間の除隊となったモネを戦地に戻さないため、父は残り4年分の服務義務の免除金を支払った。

もしかしたら兵役を忘れて絵画制作に明け暮れている息子に厭きれ、仕方なく親の責任を取っただけなのかもしれない。

モネは許されなくなるまで脛を齧り続けた。

未婚のまま第一子ジャンが生まれ仕事もなく金の無心をするモネに、父は何かを決意したのだろう。

1868年に勘当を言い渡し、翌年からは仕送りの再開も拒み続けた。

しかし画家はその後も貧しさを訴えて、親友バジールに高額で作品を買って貰ったり、マネに1000フランも融通して貰ったりしている。

画家には親心は伝わっていただろうかと、思わずにはいられない。

1870年、ついにカミーユと正式に結婚したが、生活は楽にならないままだった。

結婚から数年で妻カミーユは病に伏せてしまった。

そんなモネ一家を追いこむように、やっと付いたパトロンのオシュデが破産し、更に生活は悪化していく。

エルネスト・オシュデが妊婦の妻と5人の子供を残して国外に逃げ出してしまったため、モネはオシュデ一家を同居させることにした。

モネは優しいのか、現実が分かっていなかったのか、どう捉えるだろう?

この頃、寝たきりのカミーユと生まれたばかりの第二子ミシェルを抱え、パンも絵具も買うお金もないのに2人の料理人を雇っていた。

その上、オシュデ一家を受け入れる一夫多妻のような生活を選んだのだった。

アリス・オシュデ夫人とは色っぽい噂もあるが、果たしてモネは夫として誠実だったのだろうか。

1879年9月、究極の貧しさの中でカミーユは子宮がんでこの世を去った。

彼女の看護も葬式の手配も、全てアリスが行っていた。

私にはこの二人の女性の心境は、想像しがたい。

画家は、死に床の妻を描いた。

カミーユの肌が、生から死へ変化する中で画家は筆をとった。

青、黄色、そして灰色へと顔色が変わっていく様を冷静に観察し、その死を画布に描き取った。

それは画家の性だったのか、それとも愛ゆえの行為だったのか人々の意見は分かれる。

その後、2人の息子とアリスと彼女の子供6人を連れてモネは転々とし、ジヴェルニーの借家に落ち着いた。

ロダンとの合同展覧会で名声を得て生活が楽になると、借家を買い取り増築や土地の買い増しを繰り返し、理想郷のような家と庭を造っていった。

アリスとも正式に結婚し、家族に囲まれて豊かな生活を送った。

四季折々に美しい花々を咲かせる庭や睡蓮の池は、名画となり世界中に知られている。

モネは50歳を過ぎて、作品群からイメージされる通りの家族愛や豊かな生活を手に入れたのは事実だ。

しかし現在に知られる多数の名作が、自殺さえ企てるほど困窮した生活下で生み出されたのも事実である。

それは画家の力量に依るものかもしれないが、妻カミーユの存在に支えられたものだったのかもしれない。

一夫多妻と揶揄することは簡単だが、そこには彼らしか知らない真実があったのだろう。

これは私的な感想だが、死に逝くカミーユ・モネがあれほどまで安らかな表情であったのは、我が子と夫を託せる女性が傍に居てくれたからなのではないだろうか。

煌めくような色彩で穏やかな情景を描く印象派の画家というイメージ。四季折々の花が咲き乱れる素敵な庭で家族と共に暮らした86年の人生。愛する妻と子供たちに囲まれたモネの人生は、さぞかし幸せであっただろうと人々は想像する。しかし彼の半生はもっと醜く複雑で、非常に身勝手でありながら優しさ満ちていた。

≪死に床のカミーユ・モネ≫をモネは生涯手放さなかった。

自然へと還っていく最愛の人を、忘れてはならない瞬間を、画家は無心で描き捉えた。

その日のことを彼は、冷酷に観察している自らに気付いたと言い表している。

衝動に突き動かされ描いたことで、冷酷さという見えない棘を引きずって生きることになった。

しかし、そんな画家を素晴らしいと賛美したい。

愛する妻の最期をキャンバスに留めようという試みは、この画家ならではの愛情表現だと思えるからだ。

心のままに行動し、見えない棘に傷付く。その繰り返しこそが、豊かな人生の醍醐味なのかもしれない。

 

クロード・モネ(Claude Monet)の
貧しさと二人の妻にまつわる略年表
(1840年11月14日フランス パリ ― 1926年12月5日フランス ジヴェルニー)

1840年 食料品・雑貨商を営む家の次男としてパリに生まれる。
1845年 家族でル・アーブルに転居。
1857年 母が亡くなる。父方の叔母のおかげで絵の勉強を続ける。ブーダンに出会う。
1859年 単身パリへ。ピサロに出会う。
1862年 体調不良を理由に父が金を支払い兵役除隊。グレールのアトリエに1年ほど入門。
1866年 カミーユをモデルにした≪緑衣の女≫が官展に初めて入選。
1867年 カミーユが長男ジャンを産む。≪揺りかごの中のジャン・モネ≫作成。
≪サン=タドレスのテラス≫を作成。実は後者は、家族が増えて生活費に困り父親に金の無心に行った際の作品。
1868年 転居するも翌月末には家主に追い出され、父に勘当され自殺を企てる。
1869年 何度か目の仕送りストップで、今回は仕送りの再開を強固に拒まれる。
1870年 官展で落選。カミーユ・ドンシューと結婚する。叔母が亡くなる。
1871年 父が他界。その遺産が手に入る。
1874年 第一回印象派展に出品した≪印象・日の出≫から印象派という言葉が生まれる。
1875年 ≪ラ・ジャポネーズ≫や≪散歩、日傘をさす女性≫などカミーユをモデルに制作。カミーユが病を患う。
1876年 オシュデ夫妻に依頼された仕事をする。
1877年 貧しさに耐え兼ね、1点40~50フランで作品を売る。
1878年 次男ミシェルが誕生。マネやカイユボットから金を借り、溜まった家賃などを支払いヴェトゥイユに転居。破産したオシュデ家の妻子を同居させるも一文無しとなる。
1879年 カミーユ死去。≪死の床のカミーユ・モネ≫を作成。
1883年 恩人のマネが亡くなる。アリスと子供たちを伴いジヴェルニーの借家に引っ越す。
1889年 同年生まれのロダンと合同展覧会を開催して成功。経済的に安定する。
1890年 ジヴェルニーの土地と家を購入。
1892年 アリス・オシュデと結婚する。
1899年 シュザンヌ(アリスの三女)死去。
1899年 睡蓮の連作を描き始め、これ以降27年間続ける。
1908年 視力が低下する中、アリスとヴェネツィアへ行くがアリスの体調不良のため帰る。
1911年 妻アリスが他界。悲しみにより制作意欲が衰える。
1914年 長男ジャンが死去。息子の妻で、アリスの次女ブランシュがモネの世話を引継ぐ。
1923年 白内障の手術を受けて、視力と失っていた色彩を取り戻す。
1926年 12月5日ジヴェルニーにて86歳で逝去。

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