ATG雑感後始末記Vol.1

ここに1枚のパンフ「ATG映画の全貌」がある、かなり傷んでしまったが手放すことができないでいる。当時、小石川高校隣にあった劇団「昴」運営による三百人劇場(閉館)で、第1回目(1977年)の「ATG映画の全貌」映画祭が開催された時のパンプレットだ。

その頃ATGで上映していたものと言えば、須川栄三監督の「日本人のへそ」、曽根中生監督の「不連続殺人事件」、若松孝二監督の「聖母観音大菩薩」、森崎東監督の「黒木太郎の愛と冒険」、実相寺昭雄監督の「歌麿 夢と知りせば」、高林陽一監督の「西陣心中」、山口清一郎監督の「北村透谷 わが冬の歌」であった。少しずつであるが、ATGもこの時代辺りから翳りが見え始めていた、そんな中で異彩を放っていたのは若松孝二、官能の世界を描いたらこの監督の右に出る者はいなかった、また製作日数の早さでも誰一人適わなかったという逸話を持つ監督でもあった。昨年、道路を横断中車に轢かれ入院先で亡くなってしまった、本当に残念と言うほか無い。
このATG映画全体を仕切る中心人物が、プロデューサーの葛井欣士郎氏である、また小劇場の前衛的演劇のプロデューサーでもあった。現在、体調を崩しているものの数年前にはATG時代の総括と新宿文化を描いた「遺言」を上梓している。その著書を頂いたとき、”僕の遺言としてもらって欲しい”と言われた時、言葉に詰まってしまった。

二十代の後半、ある人を介し葛井氏の下でATG映画のイロハを学んだ。そこには他にテレビ局に入ったY君やスティールカメラマンになったT君もいた。各々進む道は分かれてしまったが、あの頃の思い出は懐かしいと言うより、己の未熟さをいやと言うほど味わった。右も左も解らぬ新参ものにとって、葛井氏の下で働くということは視界に入るもの全てが新鮮であった。演劇と映画両方のプロデュースをしていることから、制作担当者や役者など様々な人たちが出入りする中、人間模様の断片を垣間見ることが出来、衝撃的ではあったけれど表現をするという行為の難しさも学んだことは確かだ。それが今日、人間を見るモノサシとなっている。

「ATG映画の全貌」の企画が進む中、各プロダクションに収められている作品フィルムを三百人劇場に運んだり、また監督宅へ伺ったりしたこともあった。オフィス近くには、亡くなった大島渚監督の事務所「植物園」があった。そこには大島監督の実妹さん大島瑛子さんが居り、鋭い眼差しでフィルム貸し出しのやり取りしたことを覚えている。

60年〜80年代という憤怒とうねりの時代の中で、常に映画界を嚮導(きょうどう)していた、葛井欣士郎氏。夫人は劇作家の村井志摩子さん、「かたつむりの会」というミニマムな演劇集団を組織し、世界に向けて平和を唱えている。葛井氏同様体調を崩しているが、映画も前衛演劇もこの葛井欣士郎という”学校”で学んだことに間違いは無い。
世界の映画人・研究者たちの間からは「アート・シアター・ギルドとは何だったのか」と論議がなされている、折に触れてATGとは何だったのかをこれから書いて行こうと思う。

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