二人の果てなき渇望から生まれた水戸芸術館、アートを水戸から発信する

私事で恐縮だが20数年ぶりに水戸へ出かけた、行き先は水戸芸術館。ドキュメンタリー映画の件で、水戸芸術館の担当者と話し合いをするためである。20数年ぶりと書いたのには訳がある、その当時地元ラジオ局でCMと番組製作に関わっていて、水戸を何度も往復した。その仕事を6〜7年ほどしただろうか、今回スタッフの一人、女子アナ(現場を続けたいとフリーに)から今回お呼びが掛かったのである。
2年前、渋谷でドキュメンタリー映画の試写会を催した際、彼女を招待した。その試写会当日、何年かぶりの篠を突く雨に来場は困難だと思っていた、それは他に招待した方たちも同じであったが、彼女は辛くも上映寸前で間に合った。彼女は上映が終わるやいなや、水戸芸術館で上映したいと少し上気した顔つきで言ってきたのだった。その言葉は胸に響いたが、こちらとしては予想だにしていない言葉だっただけに「上映出来たら嬉しいですね」とポツリ一言、なんと素っ気ない返事だったことか。近くのカフェで昔話に花が咲き、水戸で上映する具体的な話はこちらからは持ちかけなかった。
それから一年が経ち、突然彼女から連絡が入り「関係者に取り付けたので、都合の良い日にいらしてください」と言われたのだった。彼女は約束を果たすために東奔西走してくれた、こちらはそんなこと何も知らずに、と言うより日々の雑用に追われすっかり約束のことを忘れてしまっていた。加えて水戸へ行く時間も思うように取れず、大分時間を要してしまった。そしてようやく2年目にして水戸へ伺うことができたのである。なんとも失礼な話で、彼女の誠意と努力を2年間も待たせてしまい不敬の至りであった。

水戸駅の変貌ぶりに驚いた、南口の景色が全く違っていたのだ、湿地帯と言うことから当時は駐車場と赤ちょうちんしかなかったと記憶している。湿地帯には高層ビルが建ち、すっかり様相を変えた。水戸駅は北口がメイン、まさしく県庁所在地を証明するかのような大きな道路、その中心を成す銀杏坂、これがきつい坂道なのだ。これまで水戸の中心地をゆっくり歩いたこともなかったので、水戸芸術館まで歩くことにした。歩きながら甘かったことに気付く、歩いても歩いてもなかなか目的地に到着せず汗が滴り落ちる。景色を愛でるような雰囲気ではなかった、坂道も少しずつ平坦になり水戸徳川藩の城下町らしい老舗の店がここかしこに見えてきた。気になったのは、人の数だ、人口27万とウィキペディアに載っていたが人の往来が少ない。地方都市の冷え込みを話では聞いていたが、活気の無い街はどこか侘びしく感じる。
水戸芸術館は市政百年記念事業の一環で作られ、今年で23年目を迎える。何度も来ていたのに一度も訪れることなく彼女のアテンドによって初めてホールを潜る。なぜこの地に芸術館が出来たかを彼女が教えてくれた、当時の市長であった故佐川一信氏が、芸術・文化活動に市の予算の1%を充てると発表したと言う、ウワモノに予算はつけても、芸術活動の運営費に市の予算の1%をずっとあて続けるということは、どの市町村でもかつてない革命的なことだ。
そして、芸術・文化活動を運営するにあたり佐川一信市長は誰を館長に据えれば良いか熟考した。茨城県とは無縁の故吉田秀和氏に白羽の矢を立てた。吉田氏は日本の音楽評論、文学、美術など芸術全般に多大な影響を与えてきた中心的人物。行動力ある佐川市長は鎌倉の吉田秀和邸に何度も足を運び、懇願したという。その熱意に根負けした吉田秀和氏は首を縦に振り「私が応援する」と言ってくれたのだそうだ。するとその話を聞いた信奉者や弟子たちはこぞって吉田氏を応援し、みるみるうちに賛同者は増えたくさんのアーティストが集まったと言う。今年、吉田氏の遺志を継ぎ館長になった小澤征爾氏、感慨深いものがあるだろう。水戸室内管弦楽団は20年前吉田氏が小澤氏を鎌倉に呼び、室内管弦楽団を組織したいと強い希望があって生まれた管弦楽団だ。
吉田氏の願いが、水戸芸術館のパンフにこう記されている「芸術館は、どこの誰に対しても胸襟を開いた存在にならなければいけない。これが、ぼくの、音楽評論家としての哲学だし、それから、ぼくがここに芸術館の館長としている限りにおいて、水戸芸術館のテーゼとして、貫いていきたいと思うのです」と。水戸芸術館は音楽の他に、演劇、美術の三本柱に芸術文化を創造している、この館の素晴らしいところは、各スタッフがホールの空洞化しないよう自主企画による運営をしているところである、もはや納豆と水戸黄門だけの街ではない。これも故佐川一信市長及び故吉田秀和氏の芸術文化への果てなき渇望があったからであろう、四国、仙台、長野、新潟と地方のアートが少しずつ熟してきた。
後は女子アナの助力が日の目を見、当方の案件が実るかどうかだ……。

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