アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 57

清朝最後の皇帝溥儀が紫禁城を後にした中軸線上の北端に聳える門

~ 中国 北京 紫禁城 9 神武門・筒子河 ~

紫禁城は北京市を貫く中軸線の線上に、午門、太和門、太和殿、中和殿、保和殿、乾清宮、交泰殿、坤寧宮などの重要な建造物が、南から北に向かって並んでいる。その一番北の端に建つのが神武門だ。広大な敷地面積をもちながら、外界とは厳格に遮断された宮殿に4つしかない門の中の一つだ。東西南北に一つずつ作られた門の中で、南端の午門を表門とすれば、北端の神武門が裏門となる。紫禁城に訪れる人の大半は午門から宮殿のエリア内に入り、神武門から出る。

神武門は1420年、明代の永楽18年に創建された当時は玄武門と呼ばれていた。玄武は北方を守る守護神だ。堂々とした門構えは宮殿内の建造物と同じように、赤色の壁と黄色の琉璃瓦で構成されている。城壁の上に赤色の柱を立てる門桜の中には、鐘や太鼓が設置され鐘をつき太鼓を鳴らして、宮殿の内外に時刻を知らせていた。城壁にはなだらかな曲線でデザインされたアーチ型の出入口が3つ作られ、ここから人々が宮殿への出入りを行った。約500年にも及ぶ歳月の中で、この門を潜った人の数は数えきれないだろう。宮殿の外側に面する城壁の中央には、郭沫若の筆による「故宮博物院」の大きな石額が掲げられ、現在の紫禁城の立場を表している。

午門から宮殿のエリアに入ると、皇帝との謁見の場である外朝の広場に足を踏み入れることになるため、役人や官僚達は午門を使うことが多かったであろう。これに対し神武門を入ると御花園を通って、皇帝のプライベート空間に繋がるため、きっと勝手口の役割を果たしたことだろう。この門から食料や日用品など、様々な物資が宮殿内に運び込まれたに違いない。

長い年月にわたって皇帝の生活を支えた門は、1924年の晩秋の日に中国史において衝撃的なシーンを作る場面となった。11月5日、夕刻の4時過ぎに神武門の脇門が開き、清朝の最後の皇帝となった愛新覚羅溥儀が、妻の婉容とともに神武門から紫禁城を後にしたのだ。長年住み慣れた宮殿からの退去は、命令から2時間足らずの慌しいものであったという。1644年の春に、ドルゴンが明朝の旧臣達が捧げる儀杖を潜って、午門から威風堂々の入城を果たした年から、丁度280年後の歴史的な事件だ。この日、紀元前2000年頃の中国最古の王朝、夏王朝の成立から4000年にわたって連綿と続いた、中国の王朝による絶対的な支配が終焉を告げたのだ。

屈辱の思いを引きずりながら、紫禁城の外に出た溥儀の眼に映る光景は一体どのようなものであったのだろうか。神武門から宮殿の外に出ると、左右の両側には穏やかな水面を湛える堀が広がる。広大な敷地面積をもつ紫禁城の周囲は総延長3500メートルを超える。筒子河は、幅約52メートル、深さ約4メートルで、この紫禁城の延々と続く全周を隙間なく取り囲んでいる。堀の幅そのものが皇帝と庶民の間を、物理的にも精神的にも分け隔てる役割を果たしていたわけだ。宮殿内部の様子を包み隠す城壁が、南北961メートル、東西753メートルの直線を作る筒子河の4つの角には、角楼が建ち紫禁城の頂点を示している。

堀に沿って設けられた遊歩道を歩いていると、そこには静かで落ち着いた雰囲気が漲り、微動だにしない光景に時間が静止しているように感じられる。筒子河に水平に広がる水面は、中国の歴史を映し出す鏡のように見えてくる。水の中には明代清代を生きた人々の様々な思いが溶け込んでいることだろう。紫禁城を中心として延々と続いた中国の悠久の歴史が偲ばれる。

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