テオドール・ジェリコー ~美の真相~

男たちが大海原を漂流してから10日以上が経過していた。

頭に浮かぶのは両親の顔でも妻の事でもなく、港町の酒場で皿に残したピクルスとフライドポテトだった。

ピクルスの汁で湿ったポテトを皿の端に寄せ、残りのポテトとソーセージだけを食べて若い船員は店を出てきた。

食事中は挨拶代わりに酒場の女を口説いていたが、交わした言葉どころか顔すら覚えていない。

皿の食べ残しと女の口臭は不思議と鮮明に思い出された。

そんなどうでも良い記憶が男の心を支配しはじめた頃から、彼は死に抗うことを諦めていった。

多くの人々が隣で最期を迎えた。

かろうじて息をしている者たちも、とうに正気も精気も尽きている。

初めの数日間は、腹が減ったとか喉が渇いたとか生理的な欲求が男の心を占めていた。

欲求が自覚できたうちは、なんとしても生きて帰りたいという強い意志もあった。

死を望む周囲の声に彼は無反応で耐え、息絶えたばかりの亡骸に暖をとり、静かに朝を待った。

言い争いから殺し合いに発展する人々を眼前に、男は無心をあろうと努めた。

残った者たちが生きるために死肉を口にするようになると、彼は考えることさえ放棄した。

船が座礁した時、6隻の救命ボートでは約150人が乗りきれなかった。

乗組員は大急ぎで筏を移り乗った。

筏はボートに牽引されて船を離れたが、最初の夜に嵐に見舞われ、救命ボートにいた上官たちはどさくさに紛れてロープを切った。

嵐でロープが絡まりそうだったという身勝手な理由で、動力も食料も飲み水もない筏は荒海に取り残されてしまった。

男たちは大波と飢えと狂気と戦いながら、救助か死か奇跡が訪れるのを待ち続けた。

多くの人間が絶望して死を選んだ。

大きな波が命をさらって行った。

食料が足らないのは明らかだったから、自然な成り行きのように殺し合いが始まった。

そして数日が経過すると、潔く狂気を受け入れた者たちは一瞬前まで人間だった肉を貪っていたのだ。

自らが明日生きるために、他人の肉片を干して保存食とした。

 

ここで生き残るために必要なものは、勇気でも正義でもない。

残虐さと狂気を受け入れることだ。150人近くいた人々は、1割に減ってしまった。

明日は自らが皆の胃を満たす干し肉になるかもしれない。

そんな状況下で食べ残したピクルスなどという無意味な後悔が頭から離れないことこそ、逃避であり狂気なのだろう。

若い船員は数時間ぶりに薄目を開けて、周囲の様子を盗み見た。

最後に隣の髭面を見た時、奴は白昼夢でも見ているようだった。

赤ん坊のような笑顔で海水をガブガブと飲んでいた。

残照の中、奴はもう動かない。

髭面を海に投げ捨てるのが億劫で、ほんのりと体温の残る足を枕に再び目を閉じた。

 

1816年7月2日、フリゲート艦メデューズ号はアフリカ西海岸モーリタニア沖で座礁した。

金と地位のある者など約240名が救命ボートに乗り移り、約150名は破損した船の廃材とロープで急造した筏に乗り込んだ。

この筏が13日後に発見された時、生存者は15名(もしくは12名)だけだったという。

波にさらわれた者、自ら死を選んだ者、飢餓や病で命を落とした者、生存者間の抗争で殺された者など様々な理由で尊い命が奪われた。

当初フランス政府は、この悲惨な海難事故の真相を隠そうとした。

しかし隠そうとすれば真実はこぼれ出るもので、座礁の原因が船長にあったことも、残酷で信じがたい生存者の体験も、世紀を超えて世界中に知れ渡ることとなる。

 

フランス画家テオドール・ジェリコーの大作≪メデューズ号の筏≫は、この衝撃的な海難事故を描いた絵画である。

しかも事件からわずか2~3年後、1819年に完成させている。

聖書や神話の場面が盛んに描かれていた19世紀初頭に、画家は何故このような過激な主題に選んだのか。

その理由は、彼の短い人生にヒントがある。

 

1791年9月26日、ルーアンの裕福な夫婦のもとにジェリコーは生まれた。

弁護士の父は画業ではなく別の仕事に就くよう望んだが、息子は意思を貫いて画家を目指した。

初めに弟子入りした画家ヴェルネの元で、ジェリコーは師の表現に疑問を感じてしまった。

理想化された馬を描いていては、動物本来の躍動感や生命力などの真の姿を描くことはできないと悟ったのだろう。

師を変えてもその不満は消えず、美術館に通って名作を手本に独自の表現を追求した。

彼は当時としては珍しく神話や聖書に主題を借りず、周囲の物事や現実に目を向けようとした。

真実を追求する強い精神力は、法律家の父親の存在に影響を受けているのかもしれない。

現実を忠実に描き出そうという試みはやがて、同時代のセンセーショナルな事件を画布に捉えるという過激な挑戦に画家を向かわせた。

完成当初、事故の詳細同様に絵画も葬られそうになっている。

≪メデューズ号の筏≫がサロンに出品されると、ルーブル美術館が購入を希望した。

若い画家は自分の作品が評価されたこととさぞかし喜んだことだろう。

しかし事の真相は違った。

それは作品を人々の目に触れさせないために謀られた策で、1度も展示されないまま代金も支払われずに1年が経過した。

画家は作品を取り戻すとイギリスに渡り、ようやく作品の展示に成功した。

画家はそれから約三年、死の前年までイギリスに滞在した。

ジェリコーの作品では≪メデューズ号の筏≫のように人間をメインに描いたものは少ない。

彼の代表作のほとんどは馬が主題だ。

画家は乗馬を好み、近衛騎兵に志願して入隊するなど馬への興味は尽きなかった。

おそらく彼は最初の課題として馬を選び、一番身近で心を許せる動物の姿を描き続けたように思われる。

 

人間という大きなテーマは、まだ先に残していたのではないか。


しかし不幸なことに、彼の人生は愛する馬によって終わりを迎えることになる。

≪メデューズ号の筏≫の完成から5年後、前年の落馬により持病の脊椎結核が悪化して32歳の若さでこの世を去ってしまった。

≪メデューズ号の筏≫という作品は、テーマを深く理解するほど、残酷で不快な作品になるかもしれない。

何も知らずに見つめれば、映画のワンシーンのように美しい。

計算されつくした構図も、静と動をはっきりと分けた人々のポーズも、希望を伝える遠景も素晴らしく美的なのだ。

どことなく本作は、戦争写真に感じる「美」に似ている。

単純に美しいとは言えない美的なもの。

こうした芸術を見ると、美という言葉の深さに驚かされる。

美学という学問上は、美しいとは真逆にある醜いも包括する「美」もしくは「美的」という考えがあるが、ジェリコーの≪メデューズ号の筏≫はまさにそのような広義の美を感じることのできる作品だと思う。

死に絶えた姿も、必死に生きようとする姿も、美的だと思わずにはいられない。

このような人間の美的な姿を描くためにジェリコーはジャーナリストのごとくリサーチをした。

生存者の話を聞き、病人や死人の肌を見るために病院などに出向き、彼は死体をアトリエに運び入れて、死臭の中でデッサンやエスキースを制作したという。

制作過程も主題と同様、知るほどに気味悪さを覚えるかもしれない。

しかし真の姿をありのまま描こうと試みたジェリコーだからこそ、この信じがたい出来事を画布に留めることに成功したのだろう。

キャンバスの中では人肉を貪り生命を繋いだ人々が、遠くに見える船の陰に希望を見出している。

しかし実際に救出された人々は、遠くに見える船に歓喜し必死に合図を送ったが気付かれず、半日が過ぎて希望を失った頃に発見された。

これが絶望の前の一瞬の希望と知れば、作中に希望を感じたくはないだろう。

しかし、こうした事実を知ったとしても知らなかったとしても、鑑賞者の心は動かされてしまう。

どのように感じるか、どこまで知るかは自分次第。

そんな自由が許された名画に、私は若い船員の心模様を想像したり、様々な人間ドラマを感じている。

 

 

テオドール・ジェリコー(Théodore Géricault)の馬にまつわる略年表

(1791年9月26日フランス ルーアン ― 1824年1月26日フランス パリ)

1791年9月26日 ジェリコーは資産家の家庭に生まれる。

1796年 家族と共にパリへ引越す。

1808年 馬を得意とする画家カルル・ヴェルネに弟子入りし、大好きな馬を多く描いた。

1810年 別の画家に弟子入りするがジェリコーは満足せず、美術館に通い専ら過去の巨匠の作品に学んだ。

1812年 躍動感あふれる馬を描いた作品≪突撃する近衛猟騎兵士官≫でサロンの金賞を受賞。

1814年 ≪戦場から去る負傷した胸甲騎兵士官≫でも馬を伴った兵士の姿を描く。

1816年 イタリア旅行。ミケランジェロをはじめとする巨匠たちの名作に表現を学ぶ。

1819年 ≪メデューズ号の筏≫をサロンに出品。

1820年 3年近くイギリスに滞在。イタリア滞在時と同様に競馬を主題に馬の姿を描いた。

1823年 落馬事故が原因で、脊椎結核が悪化。

1824年1月26日 32歳で他界。

 

 

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