ATG雑感後始末記vol.2

世界の映画人・研究者たちの間からは「アート・シアター・ギルドとは何だったのか」と論議がなされる中、3年前にATG(アート・シアター・ギルド)創立50周年を記念し、国内外で様々なイベントが開催された。

その年には国立新美術館でポスター展、夏はパリで松本俊夫監督を講師に迎え、ATG作品43本が上映された。

また2003年には日本映画史のなかできわめて特異な運動であったATGをめぐって、ウィーン映画祭の特別企画として33本が回顧上映され、その講師として招かれたのがATGの中心人物、葛井欣士郎氏であった。

純粋の芸術映画、映画を前進させる意図の下につくられた実験映画、それがATGの使命でありマチエールでもあった。

既成の社会への反抗と同時にその反抗が招く錯覚、偽りをも見逃さず、直視するという謂わば二重の明晰性によってATG映画は創り出されていった。

それは当時の目的が、あくまでも主題と方法の追究というところにあり、いまだ他人が踏み込んでいない未開の領域をいかにして切り開くか、それは情熱以外のなにものでもなかった。

1961年、アート・シアター・ギルドが結成される、安保闘争の直後のことであった。

 

翌62年4月、ATG映画を上映する劇場、アートシアターが誕生する。

全国で10館(東京3、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡、札幌各1)であった。

第一作は、ポーランド映画、イエジー・カワレロウィッチ監督の”尼僧ヨアンナ”、続いてコクトーの”オルフェの遺言”。

”野いちご””ピアニストを撃て””去年マリエンバードで””81/2”と、ベルイマン、レネ、トリュフォー、ゴダール等の監督たちは時代の若者たちのファナティックな支持を受け、アートシアターは映画の寵児となった。

 

映画史家の四方田犬彦氏は、以前東京新聞紙上で「パリの映画的胃袋」と題し、パリでの映画を取りまく情況について述べていたが、いまやメイドイン何々というものは通用しない時代になり、映画製作はボーダレスへと加速し始めている。

”パリの映画的胃袋”はエミール・ゾラの”パリの胃袋”を捩ってのことだと思うが、その胃袋とやらもブリヤ・サヴァランが愛した美食ではなくジャンクフードを大量に消費する内蔵となってしまった。

かつてフランスがヌーヴェル・ヴァーグで耳目を集めたのは周知の事実だが、その栄光もどこか色褪せ、瑞々しさや生々しさを作品の特色とするヌーヴェル・ヴァーグの精神は汚泥となって地下水路に流れてしまった感は否めない。

そのような背景の中、とりわけATGに対しての郷愁というのかレトロスペクティブがヨーロッパ全土に”アート・シアター・ギルドとは何だったのか”が注目を浴びるのは自明の理なのかも知れない。

フランスは既に作家主義の映画は終わり、リュック・ベッソンやジャン=ピエール・ジュネという新種の監督が現れ、フランス第3の波の出現と思われたが、彼らも名が売れるとそそくさとハリウッドへ活動の場を移し、波は余波で終わってしまった。

が、ここへ来て、べた凪だったフランス映画界に於いて、ヌーヴェル・ヴァーグを継承する監督も登場しつつある、”ジョルジュ・バタイユ ママン”を撮ったクリストフ・オノレや短編王の異名を取るフランソワ・オゾンと言った監督たちだ。

アメリカ映画にはない徹底した個人主義映画、それがフランス映画のうぬぼれであり尊厳だった、決して結実することなく起承転結がない実験性を含んだ痛快さ、その代表がゴダールであり今一度大きな波を届けて欲しい。

 

ヌーヴェル・ヴァーグという波が60年代に日本に現れ、若い監督たちはこぞってATG映画総予算1000万の映画へのめり込んでいった。

不可能なラディカルで映画的実験を試みたATGの魅力とは何なのか、それは歴史的転換点「68年」ブームと呼称される潮流が背景だろうか。

「正に新世紀、転換期であり、世界は不穏に満ちている。

今こそ新しい時代を触発する芸術、文化、映画、演劇が生まれるべき時である」と葛井欣士郎氏はATG発足時に語った言葉だ。

 

ATGの存在は消えてしまったが、その名称だけはいまだ燃えかすのように残っている、ATGがもたらした実験映画の精神はどのような形で継承されていくのだろう。

葛井氏が語った”正に新世紀、転換期であり、世界は不穏に満ちている”この言葉、今がまさしくその時である。
ヌーヴェル・ヴァーグ、アンデレ・キノ、ニューシネマ、そしてATG映画と大きくうねりの中で拡がった波、新しい波の予兆はあるのだろうか。

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