千家十職、そして樂家の造形美

高校時代、

落ち着きがないと母親によく注意された。

それを少しでも正そうと母親は考えたらしく、家近くにあった裏千家の主と勝手に約束を取り付けてしまう。

にべもなく反抗は覆され、習うのは確か土曜日の午後からだったと思う、その茶道教室に来る生徒たちは殆どが女性ばかりで難儀したものだった。

何をするにも初心者故、戸惑うことばかり、日常生活の礼儀作法、四季の花の愛で方、茶器道具の名称、床の間の掛け軸、茶器の景色、菓子の名前にいたるまで等々、覚えるのに相当な時間を費やした。

いつしか恥ずかしさも消え、正座することも苦痛でなくなり茶道の形だけは取りあえず覚えた。

しかし、10代の少年にとっては面白くもなく、約1年間の”修行”はこの上なく辛かった。

それから時が経ち、いつしか茶器に関係なく器に対する興味が湧いてきたのである、それがいつか書いた骨董通りでの出来事だった。

 

 

長次郎作の腰に丸みをもつ半筒形の黒樂茶碗を目にしたときの驚きは今でも忘れない、以来、器や漆器の虜になり千家にまつわる作り手たちの制作に興味が注がれていった。

千家十職、三千家向け(表千家・裏千家・武者小路千家)を中心に茶道具の製作を家業とする十家の総称である。

利休独自の美意識によって道具類の形を極めていった集団とも言えよう。

中でも中川家(金もの師)や樂家(茶わん師)は利休の道具一切を作り茶の湯の世界観を構築した、他家(釜師・塗師・指物師・袋師・表具師・一閑張細工師・竹細工師・焼物師)も千家との関係は300〜400年に及ぶ。

秀吉の逆鱗に触れた利休は聚楽屋敷内で切腹を余儀なくされた、それにより千家は途絶えたかに見えたが、家康の仲立ちによりお家断絶はなんとか許された。

後を継いだのが利休の次男、少庵であった。

その後、少庵亡き後跡をついだ宗旦は、近侍に使えることなく、市井の茶人として侘び茶の精神を民間に普及させ、千家十職の基礎を作っていった。

当初、宗旦好みの茶道具を作らせるのが目的であったらしいが、少しずつ歴代家元の手ほどきによってその数を増やし、現在の十職へと繋がっていった。

千家十職の中でも樂家は出色だ、茶器の関心も長次郎の樂茶碗だった、そんなことから15代樂吉左衛門さんが作るものに当然目が行く。

吉左衛門さんは当初、彫刻家を目指していたらしくイタリアへも留学していた。

樂家を継ぐきっかけは分からないが、彫刻家になるための勉学は決して無駄ではなかったと思う。

その樂焼、桃山時代に明から伝来した“軟質施釉陶器”で普通の陶器、磁器に比べて低温(7~800℃)、短時間で焼成、鉄、銅系の色釉を掛けて作られるものを言うらしい。

 

ざん新な作風で知られる吉左衛門さん、「初代長次郎から父まで14代続いた400年のスパンは、自分の中では動かしがたいもの。

現代的な茶碗だけでなく伝統的な様式に合う作品も作る中で、自分の中にたまる心境が、また違った仕事を自分にさせる」と明かす。

400年という歴史は、前衛的造形美を求める吉左衛門であっても伝統を覆すことは難しく、樂家というずっしりした重みを15代樂吉左衛門さんは歴史との往復の中で格闘しリファインしているようにも思える。

吉左衛門さんの極めつけは、佐川美術館だ。

水庭に埋設された地下展示室と、水面に浮かぶように建造された茶室で構成されたユニークな建物で、体感美術館の魅力が存分に味わえる。

中に進むと、樂家十五代当主の樂焼作品を展示する樂吉左衞門館がある。

自らが設計したという独創的な茶室は、非日常の空間のような設えとなっており、そこから入る自然光を取り入れた一条の光りは来館者たちの目を見張るに違いない。

暗渠のような展示室、迷路を抜けると水草浮かぶ開放的な広間が見えてくる、その光景はまさしく感嘆の声だ。

侘びと寂び、これを明瞭に説明することは至難の業だが、幾代の歳月を経て継承してきた茶道が日本に留まることなくあらゆる国々に伝播することは言を俟たない。

1年足らずの修行で、茶道たるもの全てを理解したわけではないが、その出会いによって器の目利きや面白さも少しずつ分かるようになった。

おもてなしと言う言葉が一時もてはやされたが、本来その意味は茶道から出たもの。

そのおもてなしも、特別な日にではなく、不断の日常にこそ使われるべき言葉である。

関連記事

アーカイブ

ページ上部へ戻る