江戸時代には朝鮮との外交を担った対馬藩の人々が暮らした小高い山の公園
~ 韓国 釜山 龍頭山公園 ~
四方を海に囲まれた日本では、国境線という概念が生まれづらい。
太平洋の東の遥か彼方にあるアメリカを隣国と呼ぶにはかなりの無理がある。
日本海を西に進めば朝鮮半島や中国大陸がある。
日本にとって地理的に最も近い国が韓国だ。
その中でも最も日本に近い都市が釜山だ。
対馬海峡に浮かぶ島、対馬からは朝鮮半島を眺めることができる。
福岡からであれば高速船に乗ると2時間足らずで釜山に着くことができる。
飛行機に乗ることなく国内旅行の感覚で、韓国を訪れることができる。
日帰りの海外旅行さえ可能なのだ。
実際に、この高速船を使って釜山からソウルまで足を延ばし、東大門市場や南大門市場から商品の仕入れをする商人もいるようだ。
釜山市南部の繁華街、南浦洞に隣接して小高い山が聳える。
山の形が海から陸に上がる龍の頭によく似ていることから、龍頭山と名づけられた山は日本人にも縁が深い。
李氏朝鮮時代の後期、釜山港が開港して間もなくの1678年には、草梁倭館と呼ばれる日本人居留区が作られた。
10万坪にも及ぶ広大な敷地には、館主屋をはじめ、交易場の開市大庁、裁判庁、浜番所、神社や寺院など、日本人のための施設が建設された。
ここには徳川幕府から朝鮮との外交を委ねられていた対馬藩から館主、代官、横目、書記官、通詞の他、小間物屋、仕立屋、酒屋などの商人など、様々な人々が送られた。
草梁倭館に暮らす日本人の数は、常時数百人の規模であったという。
日本で江戸時代が終わり明治時代に入り、廃藩置県によって対馬藩が消滅すると、それまで日朝関係を支えた草梁倭館は閉館となってしまった。
その後の1944年に龍頭山全体が龍頭山公園として整備され、現在に至っている。
公園の中央には李舜臣の銅像が、威風堂々とした姿で立っている。
李舜臣は朝鮮半島の歴史において英雄とされる重要な人物だ。
1592年から1598年にかけて、豊臣秀吉が朝鮮半島に派兵した文禄・慶長の役において、李氏朝鮮軍の将軍を務めた。
日本軍が李氏朝鮮に大きな打撃を与えながらも、李舜臣は亀甲船を中心とする水軍を率いて日本軍を退けた。
韓国では李舜臣は、20余りの海戦の全てに勝利したと伝えられている。
中でも潮流の激しい鳴梁海峡において、13隻の船で130余隻の日本水軍を撃退した鳴梁海戦は、李舜臣を伝説的な存在に引き上げている。
最後の露梁海戦で戦死しながらも李舜臣は、韓国人が最も尊敬する人物の一人として高く評価されている。
李舜臣像の傍らには赤色の丸い柱が特徴的な鐘閣が建つ。
柱が支える建物の天井部は青色で塗られ、韓国の伝統的色彩様式の丹青色が採用されている。
この鐘閣の中には、10万人の釜山市民の寄付によって1996年に作られた市民の鐘が吊るされている。
鐘の下の床部分には窪みが設けられ、鐘の音がよく響くような音響設計がなされている。
毎年3月1日の独立運動記念日や大晦日には、釜山の街の隅々に鐘の音が鳴り響くのだ。
山頂部には釜山のシンボルとなっている釜山タワーが立っている。
高さ118メートルの展望台からは360度のパノラマで、釜山市街地や釜山港を一望することができる。
天気が良ければ、彼方に対馬を望むことができる。
釜山タワーから対馬を眺めていると、釜山と対馬が隣町のような存在であることに気づかされる。
古くから数多くの人々が対馬海峡を渡って日本と朝鮮半島を往来したのだ。
今では釜山市民の憩いの場となっている小高い山の公園には、日本と韓国の交流の歴史が漂っているのだ。