アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 60

ローマ帝国の歴史と文化を色濃く残しながら役割を変えたアヤ・ソフィア

~ トルコ イスタンブル アヤ・ソフィア 1 ~

 

日本に仏教が伝来したのは6世紀の半ばのことと伝えられている。

釈迦を開祖とする一つの宗教でありながら、13宗にも及ぶ宗派が存在する。

各宗派には総本山と呼ばれる寺院があり、高野山金剛峯寺、比叡山延暦寺は、その筆頭格と言うことができる。

高野山金剛峯寺は弘法大師空海が開いた真言宗、比叡山延暦寺は伝教大師最澄が開いた天台宗の総本山とされている。

どちらの寺院も平安時代に建造されて以来、各宗派の最も重要な支柱として、不変の教えを説き続けている。

これらの日本の仏教寺院の総本山の宗旨替えなどということは、到底考えられない。

ところが、中世以来激動の歴史を刻み続けたトルコのイスタンブルの総本山は、領主の変遷によって宗旨変えを余儀なくされた。

アヤ・ソフィアは、イスタンブルに暮らす人々の最大の信仰の対象であったことは不変の事実だ。

ところが、歴史が移り変わる中、人々に説く教えが大きく変貌したのだ。

アヤ・ソフィア建造の起源を辿ると、西暦4世紀にまで遡ることができる。

 

360年にローマ帝国皇帝のコンスタンティヌス帝が聖堂を建造したことに始まる。

創建当時は、ローマ・カトリック教の礼拝を行う会堂であった。

ところが、2度にわたる火災に見舞われた。

415年にはテオドシウス2世が、532年にはユスティニアヌス帝が、焼失直後に再建をしている。

現在の姿は537年に完成された建築物で、この頃にはローマ・カトリック教ではなくギリシャ正教が、ビザンティン帝国の国教となっていた。


古代の地中海沿岸地域を治めたローマ帝国は、395年にテオドシウス1世の死去よって東西に分裂する。

476年に西ローマ帝国が滅亡すると、ローマから遠く離れたコンスタンティノープルを帝都とするビザンティン帝国が、ローマ帝国の歴史を継承することとった。

ビザンティン帝国は、キリスト教化されたギリシャ人のローマ帝国としての文化を受け継ぎアヤ・ソフィアはギリシャ正教の総本山となった。

巨大な石を土台に分厚い壁で建造された大聖堂は、宗教施設と言うよりは戦闘に備えた堅い砦のような外観を呈している。

頑丈な外壁には、どのような侵入者からの攻撃にも崩れ落ちることのない安定感を漲らせている。

1453年、コンスタンティノープルの市民たちは、我先にアヤ・ソフィアに走り込むことになる。

強大なオスマン・トルコ帝国の襲撃を受けたのだ。

大聖堂にたてこもった市民は、最後の祈りを捧げながら神の奇跡を祈願した。

ところが、オスマン・トルコ帝国軍の巧みな戦略によってビザンティン帝国軍は総崩れとなり、5月29日にはビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルは、イスラム教を信ずるオスマン・トルコ帝国に明け渡すことになる。

一千年の繁栄を極めたローマ帝国が、歴史的に完全に消滅したのだ。

 

コンスタンティノープルを陥落したメフメト2世は、市内を凱旋した直後にアヤ・ソフィアの大聖堂に向かう。

入口の袂の土を自らのターバンに振りかけて大聖堂に入城したメフメト2世は、アヤ・ソフィアをコスタンティノポリス総主教庁から没収し、モスクに転用することを高らかに宣言した。

ローマ・カトリック教からギリシャ正教の総本山に転身した大聖堂は、今度はイスラム教のシンボルに変化する。

歴代のオスマン・トルコの皇帝たちは、キリスト教の影響を残すアヤ・ソフィアを取り壊すことはなかった。

外観的に上は4本のミナレット、王室の墓所を新設したが、内装においては最小限の手を加えるに留まった。

 

 

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