アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 61

モスクの時代に白漆喰で覆われ保護されたキリスト教のモザイク画

~ トルコ イスタンブル アヤ・ソフィア 2 ~

ヨーロッパ大陸とアジア大陸に跨るトルコ第一の都市、イスタンブルに建造されたアヤ・ソフィアは時代の流れとともに、ローマ・カトリック教、ギリシャ正教、イスラム教の宗教施設として役割を変えた。

分厚い壁をもち砦と見違えてしまいそうな頑丈な建造物は、取り壊されることなく時代を超えて利用され続けたのだ。

1453年5月29日、オスマ・トルコの皇帝メフメト2世は、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させた。

メフメト2世はコンスタンティノープルの街を凱旋行進するやいなや、アヤ・ソフィアの大聖堂に入城し、アヤ・ソフィアをイスラム教のモスクにすることを高らかに宣言した。

 

聖堂の敷地内にあった十字架は、即座に全て取り外される。

 

そして、イスラム教のシンボルである、メッカの方向を示す窪みのミフラーブが新しく作られた。

建物を壊すことなく必要最小限度の改築で、オスマン・トルコの宗教的な拠り所となるモスクが準備されたわけだ。

聖堂内にビザンティン時代に描かれた数々のモザイク壁画は、歴代の皇帝によって白漆喰の中に隠された。

メフメト2世はキリスト教徒を迫害することもなく、イスラム教への改宗を迫ることもなかった。

歴代の皇帝たちも、異教徒に対して寛容な態度で接したという。

外観的にも4本のミナレットを新たに増築するだけで、キリスト教徒が建造したアヤ・ソフィアをトルコ・イスラム教世界の象徴として活用し続けたのだ。

 

その後の1934年には、オスマン・トルコが崩壊し、ムスタファ・ケマルがトルコ共和国を建国した。

翌年には、オスマン・トルコのシンボルであったアヤ・ソフィアは、世俗化し国立博物館に改装される。

堂内に長年敷かれていたカーペットが取り払われ、壁面を塗り固めていた白漆喰が取り除かれた。

博物館に転身した聖堂の内部に入ると、日本人が最も印象的でエキゾチックに感じるものは、アラビア文字が描かれる円板だろう。

 

至るところに暗緑色の巨大な円板が掲げられ、その中には金色のアラビア文字が記されている。

 

モスクの中心ともいえるミフラーブの右手には「アッラー」、左手には「マホメット」の名が刻まれる。

偶像を禁止するイスラム教世界では、文字に巧みな装飾が加えられているのだ。

ミフラーブの両脇の文字は、19世紀に書家として活躍したハッタト・ノーッゼト・エフェンディの筆によるものだと伝わる。

アラビア文字を読むことはできなくても、高度な装飾性をもっていることが窺い知れる。

 

日本や中国などの漢字を使う文化圏には専門の書家が存在することは周知のことだが、アラビア文字圏にも書家が存在し、モスクなどに独特な装飾を施していたのだ。

 

アラビア文字やミフラーブにイスラム教に基づく美意識が漲るが、壁面を眺めると、そこにはキリスト教の文化で埋め尽くされている。

上塗りされた漆喰が長期間にわたって中のモザイク画を保護していたせいか保存状態はとても良い。

拝廊の南側出口の上には、ユスティニアヌス帝聖母子コンスタンティヌス帝の姿が鮮やかに浮かび上がる。

聖母子の左手のコンスタンティヌス帝はコンスタンティノープルの模型を、右手のユスティニアヌス帝はアヤ・ソフィアの模型を手にして聖母子に献上している。

イスタンブルの歴史の流れの中で宗旨変えをしたアヤ・ソフィアは、現在では宗教施設としての役割を終え博物館として公開されている。

キリスト教とイスラム教の文化を一つの堂内に共存させながら、激動の歴史を今に伝えているのだ。

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