伝説の画家ヤン・バウフ

チェコの国民的画家ヤン・バウフJan・Bauch(1898〜1995)が18年前に亡くなった。

この画家を知ったのは、東欧を中心に弦楽器の買い付けをする青年からヴァイオリンを買ったことがきっかけだった。

ヤン・バウフ、彼の名前を一度も聞いたこともなく、チェコの画家と言えば、アール・ヌーヴォーアルフォンス・ミュシャぐらいが関の山である。

その楽器商の青年が、日本でヤン・バウフの展覧会を催したいので協力してもらえないかと相談を持ちかけられた。

突然の申し出に戸惑うと共に、なぜにこちらに個展の話を持ちかけ来たのか判断に苦慮した。

絵画は好きだ、仕事で画家の物語も書いたことはある、しかしこちらとしては楽器商の素性もはっきりしないまま、首を縦に振るわけには行かなかった。

楽器商は毎日のように拙宅を訪れ、ヤン・バウフの画集を持って来てはチェコでの人気ぶりについて口角泡を飛ばしながら語るのであった。

それから2ヶ月ほど経ち、彼の猛烈な説得に根負けし、都内の有名美術館での開催を催すために片っ端から廻ったのである。

しかし、その計画も徒労に終わった。

どの美術館も日本との関係を訊いてくる、日本人画家と交流はあるかとか、日本をテーマにしたものはあるかとか……とにかく学芸員の問いかけはアーティストとしての質問よりも、この国との縁のみだけに言及してきたのだった。

 

その時ヤン・バウフは94歳、彼は車いすを余儀なくされ、それでもなんとか日本での開催を楽しみにしつつ、展覧会の説明を自らするとまで言ってくれたが日本での個展は開くことはできなかった。

ヤン・バウフは1898年にプラハに生まれた、ゴッホに触発されて始まった表現主義とフォービズムの世界に没頭する。

後期印象派を代表するゴッホ、フォービズムを代表するマチス、キュービズムピカソ、ブラック、表現主義のノルデ、いつしかヤン・バウフもフォービズムの画家としてパリ画壇に於いて注目の的となる。

1937年、パリでピカソがゲルニカを製作した年にバウフはパリの展覧会で画壇を席捲した。

第二次世界大戦後、東西分断と共に表現主義の大家たちは民衆の目から隠されてしまう、それは殆どが東側に住んでいたことが原因であった。

この政治的、地理的断絶はヤン・バウフを敬愛する多くの人々にとって、また絵画の発展にとって大きな不幸だった。

 

ヤン・バウフとの接触は楽器商の彼であったが、94歳のバウフは親しい友人以外は接触を断っていたと言う、よほど日本から来た青年をいたく気に入ったのだろう。

 

バウフはこの時点、つまり94歳の時でも創作を精力的に打ち込んでいたと言うから凄まじいものがある。

楽器商の青年が言うには、バウフはパリでの生活が長く、とくにピカソとの交流が深かったという。

結果として、バウフの個展は雲散霧消してしまったが、彼の功績はチェコで生きている。

また、その頃にバウフ危篤説などが世界の画商たちの耳に流れたりして、バウフの絵画の価格が一気に跳ね上がったという、なんともおぞましくデモーニッシュな話だろうか。

不幸なことに、画集でしかバウフの作品を観ることができなかったが、きっとヨーロッパの画廊にはたくさんのフォービズムが飾ってあることだろう。

チェコで伝説の画家と呼ばれ、日本に於いては本当に伝説だけで終わってしまった。

これからもこのような画家が現れるだろう、たとえどんなに才能を持ってしても、”日本との縁は”という陳腐なクリシェが交わされることだろう。

従って、バウフを紹介する記述はどこにもなく、あっても旅行ガイドのエピソード程度である、彼が日本で紹介される日は来るのだろうか。

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