おむすびとおにぎり

今回、日本の和食文化がユネスコの無形文化遺産に登録されることが決まった。

背景には、地方色や季節感が薄れ、画一的な味が横行する和食文化への警鐘だろうか。

かの魯山人も、黄泉の国で喜んでいる、それとも今頃になって何をほざくかと機嫌を損ねているかも知れない。

和食は総合芸術、そのひとつに地形があった、縦に延びた地形が様々な食文化を生み出し、和食文化は風土によって形成されたと言っても良いだろう。

ひとつ、心配事がある、それは食材だ。

中国でマグロの異常なまでの消費が日本を脅かし、自ずとマグロの値はうなぎ上りになった。

今回和食が注目されたことによって、ヨーロッパのシェフたちはこぞって第5の”旨味”に熱い視線が注がれている。

鰹節や羅臼昆布の高騰が気がかりだ、杞憂であって欲しいと願うほかない。

 

和食の核となるもの、それは米。宮澤賢治の詩「雨にも負けず」の中で賢治は”一日に玄米4合と、味噌と少しの野菜を食べ……”と書いてあった。

計算してみると、1年間で200㎏の米を食べることになる。

実際、昔の人はよく食べていたようだ。

労働時間が今とは比べものにならないくらい長かったため、食べなければならなかった、という生活習慣上の問題もあったかも知れないが、それにしてもよく食べていたと感心してしまう。

現代人の米の消費量の年間平均は、1人当たり80〜90㎏位という、昔の人と比較すると、現代人の体格の向上も考慮すれば、体重あたりの比率で、3分の1くらいに落ちていることになる。

日本は戦後、欧米型の生活を取り入れようとした。

学校給食もパン食取り入れ、これがその後の食生活に影響を与えことは確かなことだ。

しかし近年、欧米では本来の日本食が健康食として評価されている、このことがユネスコの無形文化遺産へと繋がったのではと思いたくもなる。

実際、日本食というものは、塩分の取り過ぎにさえ注意すれば理想的な健康食であることが証明されている。

にもかかわらず、米の消費量はなぜか増えない。

なぜ、増えないのか? どうすれば増やすことができるのか、ひょっとして、日本人は米の美味しさをわすれてしまったのでは……。

それとも我々日本人は、米の本当の素晴らしさを伝えることを怠っていたのだろうか。

 

和食文化の定義を一言では語れないが、さしずめ”おむすび”が和食を代表する食べ物ではないだろうか。

このおむすび、地域によって呼び名が違う。

物の本によると、関東〜東海道にかけてはおむすびと呼ばれているらしい。

しかし東京や神奈川辺りはおにぎりが一般的という。他に”握りまま(青森)””おにんこ(栃木)””包子(つつこ/福島)””おつくね(福井)””むっすー(静岡)””じっかまま(九州の一部)”と言った具合に地域差が食べ物をうまく表現している。

 

おむすび、一見単純な食べ物だが、これこそ究極の和食文化の賜ではないだろうか。

できたてのごはんを適量つかみ、掌に粗塩をしめらせ、息を吹きかけながら交互に掌の熱気を冷ましつつ、素早く握られたおむすび。

米の持つほんのりとした甘味、ほどよい塩気と掌の湿り、この関係から醸し出される旨味はおむすびの醍醐味だ。

おむすびは、箸を使わず、手づかみで食べるところに旨味が存分に味わえるのだ。

それどころか、感覚のいちばん鋭敏な指先に、待ちきれぬと言った食欲のはたらきが現れ、直に触れることによって指頭の感覚も満足させられる。

指先でまず味わい、それに誘発されて食欲が促されるのだ。

となると、カレーなどを食すインドやネパール、バングラデシュにスリランカ辺りも日本人の感覚に近いのかも、否日本人が彼らに近いのか。

さてあなたは、三角派それとも丸派?

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