ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン ~消えない疑惑~

ゴッホとゴーギャンはセットのように語られる。

わずか2ヶ月、アルルで共同生活を送っただけだと言うのに不思議なものだ。

かけがいのない親友というわけでもなく、信念で繋がった同志のような深い絆もなかった。

ほんの短い時間を共有して、通り過ぎた友達でしかない。

それでも後世の人々は、彼らをあたかも真の友ように話したがる。

それは何故なのだろう。

 

ゴッホの死については、少年たちの誤射であったことを画家が隠そうとしたという新説を以前このコラムに書いている。

しかしゴッホの耳切り事件についても私には一つの仮説がある。

こちらは前者のような証言も証拠もないため、あくまでも憶測だが、犯人はゴーギャンだったのではないかという疑惑が消えないのだ。

 

12月のある晩、いつものように二人はカフェで激しい口論をした。

激昂しやすいゴッホは、持っていたアプサンのグラスをゴーギャンに投げつけてしまった。

翌朝、深く後悔して心から謝罪し、二人は和解したかに思えた。

その日はとても冷え込んだが、ゴーギャンの怒りは鎮まるどころか身体が冷えるほどに苛立ちが募っていく。

顔面は赤く熱くなっていった。

そしてゴーギャンは部屋に戻るとカミソリを手にゴッホに襲いかかった。

振り下した刃先に、凄まじい眼光の男の姿が一瞬だけ映ったのをゴーギャンの目は捉えた。

振り返ったゴッホは寸でのところで身をかわそうとしたが、鋭い金属が左の耳たぶの一部を掠めた。

熟したオレンジをカットした時のように、シュワッと褐色の飛沫が周囲に散る。

その姿を見て我に返ったゴーギャンは慌ててその場を立ち去り、全てを忘れようと酒を煽った。

いくら飲んでも酔えなかった。

部屋に戻ることは怖くて、小さなホテルで一晩を過ごした。

寒さと恐怖で身体は絶えず震えていた。

警察がやってくるのではないかと窓を凝視して朝を待った。

ゴーギャンを招くために、不器用な青年画家が必死で用意してくれた黄色い家。

室内は黄色く、今では二人が一緒に描いた明るい絵がたくさん飾られている。

仲良くやっていこうと乾杯したものの、気が付けば口論ばかりだった。

いつも真正面からぶつかってくる繊細で青臭いゴッホにイライラさせられた。

ここから逃げ出したい。

幸せな場所に帰りたい。

幸せな時代に戻りたい。

白んできた空を見上げながら、そんな願望がゴーギャンの頭の中をベッタリと塗りつぶしていった。

 

朝になっても警察が訪れることはなく、ホテルから足取り重く部屋に戻った。

黄色い家の前には人だかりができていて、彼らの声で状況を把握した。

ゴッホは耳たぶの破片を封筒に入れて娼館に向かったらしい。

娼婦に相談したのだろうか。

彼女の元に肉片を残して、部屋に戻った。

心配した娼婦が警察へ連絡し、部屋で大量に出血して意識を失っている彼を病院に運んだようだ。

全ての事情を知る者がいないところを見ると、怪我を負った経緯については娼婦にも打ち明けていないようだった。

何故本当のことを言わないのか分からないが、意識が戻っても自分を庇うであろう犠牲的な青年の性格に安堵よりも腹立しさがこみ上げた。

共同生活を始めてから画商として世話になっているゴッホの弟に電報を打ち、アルルを発つ準備をした。

ゴッホの意識がはっきりしないうちに、着いたばかりのテオを連れてゴーギャンは逃げ出すようにパリに戻った。

飛びだした場所を振り返ると、太陽の色だと思っていた家は狂気の色をしていた。

ここは寒い。

アルルより眩しい太陽ならば、心まで温かくしてくれるかもしれない。

幼年期はペルーで過ごした。

見知らぬ土地で建物や木々を見上げて走り回った日々は幸せに包まれていた。

青年時代のように船に乗って異国へ赴きたい。

未開の地には癒しと希望があると信じて、彼はまだ見ぬ土地に楽園を求めた。

 

これが私の推理だ。

警察から犯人かと疑われたゴーギャンが逃げ出すようにアルルを離れたことに違和感を覚え、ゴッホの性格から推測した物語である。

ゴーギャンは事件を知りすぐテオに電報を打ち、彼の意識が戻らぬうちに到着したばかりのテオを連れてパリに戻った。

17時間もかけて夜行列車で駆けつけたテオが、意識の戻らぬ最愛の兄を置いてパリに戻ったのはなぜだろう。

ゴッホの意識が戻る前にアルルを離れたい一心のゴーギャンが言葉巧みに説得したように思えてならない。

結局、意識が戻ってもゴッホは事件について口を閉ざしたままだった。

一方ゴーギャンは数日後に友人へ手紙を出し、カミソリを手に町で自分に襲いかかったゴッホを一睨みして追い払ったとか、すごすごと部屋に戻った彼が自らの耳を切り落としとか、この顛末を記している。

夕方に部屋を出てから、その日に限ってホテルに宿泊したことも疑わしいし、あたかも目撃したようにゴッホの自傷行為だと語ったことも責任逃れのような印象がある。

この事件について目撃者は誰一人おらず、ゴーギャンの証言のみが真相として伝わっている。

ゴッホは異常なほど奉仕や犠牲的行為を選ぶ人物だった。

その性格からして、自分に切りかかり耳を落とした先輩画家をかばうことはあり得る話だと考えた。

何も語らなかったことこそが、事件の真相を隠しているように思わせる。

ゴッホが最期に近所の少年たちを庇って自傷行為と偽ったのが真実だったのなら、耳切り事件にも真犯人がいるような気がしてならない。

自己犠牲を選ぶ彼なら、激昂して自分を傷付けた友人の罪を赦すことなど他愛のないことだろう。

同様の説を唱える人も少なくないが、確固たる証拠はない。

いつまでも消えない疑惑を胸に、全てが明らかになる日を願うしかない。

 

ゴーギャンは晩年、全てを捨てて南の島に渡り少女を妻にして暮らした。

小児性愛者のイメージは、現在はあまり良いものではない。

性病が原因で画家にとって何より大事な視力を失っていることも同様だ。

描いた作品は別として、決して善き人物だったとは思えない。

彼に悪いイメージがあるために、私は上記のように邪推し疑惑を拭えない。

しかし彼の作品は多くの人々の心を捉えてきた。

人を惹きつける力は、どこから生まれるのだろう。

 

1848年6月7日、ゴーギャンはパリに生まれた。

父は新聞記者、母は婦人運動の先駆者フローラ・トリスタンの娘だった。

まもなく一家は南米ペルーへ亡命。

大叔父がペルーの有力者だったため、リマの豪華なお屋敷で恵まれた生活を送る。

この頃の幸せな記憶が、晩年の彼を異国へと誘ったのだろう。

父はペルーへ向かう船上で病に倒れて亡くなったため、母と1歳上の姉と6年間をここで過ごした

父方の祖父の死をきっかけに7歳でフランスに戻ると、神学校に入学させられる。

何度も寄宿舎から脱走を試みて、母に学校へ連れ戻されたという。

家族から離れたフランスの生活は孤独だった。

友達はできず、成績も態度も悪くて希望した海軍兵学校への進学は諦めるしかなかった。

幼い日の記憶から、船旅に憧れがあったのだろう。

17歳で水夫の見習いとして働くことを決める。

リオ・デ・ジャネイロ行きやチリ行きの船で真面目に働いた。

水夫の仕事に不満はなかったが2年後に母の訃報で船を降り、彼女の遺言に従って陸で働くことにする。

株式仲買商として働きはじめると、彼はすぐに有能さを発揮した。
1837年、メット・ガーツと出逢い秋には結婚。

ゴーギャンは株仲買人として熱心で能力も高かったため、すぐに生活は安定して印象派の絵画を趣味で買い集めるまでになった。

そのうち彼は日曜画家となるが、二足の草鞋の一足を突然脱ぎ捨ててしまう。

世界的な大不況を背景に職を失い、画家になる決意したのだ。

妻は憤慨し、その後は離婚を考えるほど喧嘩を繰り返した。

素人画家がすぐに成功するわけもなく、貯えは底を尽き生活苦に直面する。

妻子を彼女の故郷デンマークに送り、ここから貧しく孤独な生活が始まった。

当初は息子クロヴィスと暮らしていたが、妻がパリに来た際に息子を連れ帰ってしまった。

更に印象派の絵画コレクションまでも持ち去ってしまった。
翌1888年10月、再三の誘いを受けてゴッホと南仏アルルでの共同生活を始める。

11月にはテオの画廊で個展を行い、作品も数点購入してもらう。

アルルへの誘いに応じたことは、画商テオ(ゴッホの弟)のお金とコネをあてにした判断だったのかもしれない。

12月23日の晩に耳切り事件が起こり、26日にはパリに戻った。
1891年、自作を競売に出して得たお金で念願の南国タヒチへ向かう。

首都から離れた村に小屋を借り、13歳の現地妻テハーマナをモデルに作品を制作。

彼女は妊娠するが流産してしまい、同月にゴーギャンはパリに送還申請書を提出した。

ゴーギャンは、こうして希望通りにならないとその場から逃げ去るような行動を何度も取っている。
その後、船でマルセイユに戻るとジャワの女性と交際し、彼女に裏切られ金品を盗まれたことをきっかけにタヒチ再訪を望むようになる。

娼婦から梅毒をうつされた1895年、フランスの生活を捨ててタヒチへ向かい、すでに再婚していたにも現地妻テハーマナを呼び寄せた。

彼女には1週間で逃げられてしまい、14歳の少女パラウと同棲を始めた。

パウラが出産した赤ん坊は、生まれてまもなく死亡。

自らも梅毒の症状に苦しんでいた頃、本妻との娘アリームの訃報が届いた。

涙と後悔はとめどなく溢れた。

娘の死を境に、本妻との文通を絶った。

自殺にも失敗して失意の日々を送る。
1900年に画商ヴォラールと契約を結び、毎月一定額を支払ってもらえることになった。

生活は安定し、タヒチの隣の島に移り14歳の少女マリーという新しい愛人も得る。

しかし原住民のために役人とトラブルを起こし「禁固3か月、罰金500フラン」を言い渡され、判決から数日経った1903年5月8日心臓発作で他界。

看取る家族もいない孤独な死を迎えた。

 

彼が異国に、子供の頃に感じた完璧な幸せ、安らげる世界を求めた。

ゴーギャンは嫌なものから逃げ、楽しいものを求めてあがく人生だった。

苦しい病も孤独な死も、全ては自業自得といえる。

彼の人生は決して誇れるものではない。

しかし不完全な人間が自問自答を繰り返しながら必死で模索した芸術だからこそ、これからも人々の心を魅了し続けることができるのだろう。

 

ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin)の旅と妻子にまつわる略年表
(1848年6月7日フランス パリ ― 1903年5月8日フランス領 マルキーズ諸島)

1848年6月7日 パリに生まれる。
1849年 ルイ・ナポレオン・ボナパルトの弾圧を恐れて、ペルーに向けて船に乗る。船上で父クロヴィスが病に倒れ、死去。家族三人で大叔父の屋敷で不自由なく暮らす。
1855年 祖父が亡くなり相続の為に帰国。神学校に入学させられ、寄宿舎に入る。
1865年 成績が悪く海軍兵学校への推薦も貰えず、就学年齢が過ぎたため水夫となる。
船で南米を中心に世界各地を巡る。タヒチにも寄港。
1867年 母アリーヌが42歳で他界。インドで訃報を知り、下船。
1871年 海軍にて兵役を勤めて戻ると、後見人から株の仲買人の仕事を紹介される。
1873年 デンマークの女性メットと出逢い結婚し、翌年に長男エミールが誕生。
1877年 長女アリームが誕生。母の名前にちなんだ。
1879年 次男クロヴィス誕生。知日の名前にちなんだ。
1881年 三男ジャン=ルネが誕生。
1883年 不況で解雇され画業に専念することを決意。四男ポール=ロランが誕生。
1885年 前年から妻の故郷でしばらく暮らすも上手くいかず、次男だけ連れてパリに戻る。
1887年 妻メットが次男をデンマークへ連れて帰り、買い集めた印象派の作品も持ち去る。パリを離れ友人とパナマへ旅立つ。赤痢で苦しむ友人を残し、水夫としてパリに逃げ帰る。
1888年10月23日 ゴッホの誘いを受けてアルルの「黄色い家」で共同生活を始める。
12月23日 ゴッホが耳切り事件を起こし、12月26日にパリへ戻る。
1890年 ≪処女喪失≫のモデル、ジュリエット・ユエという20歳の女性を愛人にする。
1891年 競売で資金を作ると、妊娠した愛人をフランスに残してタヒチへ向かう。同年、ユエは娘を出産。13歳のタヒチの少女テハーマナ(テフラ)を現地妻とする。
1892年 テハーマナが流産し、パリへ送還を申請して翌年に帰国。
1893年 マルセイユでジャワの女性アンナと同棲する。
1894年 漁師と喧嘩で足を怪我して入院。アンナだけパリに戻り、金品を盗んで姿を消す。フランスでの生活を捨てて、タヒチへ暮らすことを決める。
1895年 フランスで梅毒を移され、タヒチへ旅立つ。
1896年 14歳のパウラと同棲を始める。同年12月に出産するが、生後数週間で死亡。
1897年 長女アリームが肺炎で他界。病にも苦しみ、ゴーギャンはヒ素自殺するが失敗。
1899年 前年に出て行ったパフラが戻り、再び同棲し男児を出産。エミールと名付ける。
1901年 14歳のマリー=ローズ・ヴァエホを愛人する。翌年に実家で娘タヒアチカオマタを出産するが、彼女はそのまま戻らず。
1903年5月8日 心臓発作でゴーギャン死去。享年55歳だった。

関連記事

アーカイブ

ページ上部へ戻る