「楽しいという感覚こそが、アートの根底」

時折、様々なフライヤーを見る機会があるのですが、よく“誰でも参加可能です”と、いうような触れ込みを見ることがあります。

それは、絵画を描く団体のものであったり、音楽であったり、工作系であったりと、まぁ様々です。

難しく考えないで、とにかくやってみて面白ければ良いじゃん!的な軽いノリなのですが、案外参加されている方が多いのだそうです。

 

先日、音楽における表現でのジャムを主体とした活動を主宰している方のお話を聞きましたが、どうもおじいさんから女子高生まで、こういったものに関心を持って参加をされているそうなのです。

数人でスタジオなどを借り、誰かが演奏しだしたら、それに合わせてどんどん音を重ねて行くのだそうです。

まぁ、本格的なジャムというか、暴走に近いイメージですが、相当楽しそうってな事だけは間違えありません。

 

冷静に考えてみると、音楽やアートなどをする時に、何故か邪魔になるのが意識だったりします。

 

こうしなければいけない、こうで無ければいけない。とにかく様々な縛りで自分をがんじがらめに、結果的に迷い悩み、嫌いになっていくのです。学校の授業などそうだったかもしれません。

音符が上手く読めなければ、リコーダーなどは吹けません。

だけれど、それってその曲の音符が終えなければ音楽をする資格が無いのでしょうか?リコーダーという楽器には、一生触れない方が良いのでしょうか?違いますよね。

それなのに、音楽の先生は烈火のごとく起こる訳です。

 

美術でも、いまいち要点が分からない作品を描くと、注意されます。

完全なる模写であったとしても、アートなことってのは答えが無いのですから、間違えも大正解も無いような気がします。

 

当然、基礎的な訓練などが無ければ前に進めないので、こういったアカデミックな教育方法は否定しません。

しかし、他の教科などと違って、苦しいものでは無く、楽しいものでなければいけないはずです。

“誰でも参加できます”と、謳ったこういった活動は、ちょっと怪しいのですが、参加することで必ず楽しかった…と、いう気持ちで家路に帰ることができます。

そこから、趣味でも本格的にでも色々としたいな、という気持ちになっていく可能性だってあるのです。

これだけしかできないの?とか、大勢の前で注意されて恥をかかされたり…。

下らないような部分で、才能を潰してしまうのが、一番最悪な教育です。

アートが生きていくためには、楽しいという感覚こそが根底になければいけません。

それであるからこそ、理解しようという気持ちも生まれるのですから。

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