初釜、此処彼処で行われている頃だろう。
新年最初に行なう茶会で、濃茶・薄茶・そして懐石料理に舌鼓し新年を祝う茶会である。
初釜は大体1月中頃に行われる、その会に出席した叔母が初釜で供された練りきりを土産にと持参してくれた。
早速、茶を点て長次郎の黒楽茶碗で……と行きたいところだが拙宅にあるはずもなく安手の萩焼茶碗で濃茶と練りきりを味わった。
そこへ来て、叔母より柳宗悦の特別展が駒場で催されていることを知った。
日本民藝館で”茶と美”と題された展示会が3月末まで開催されている。
日本民藝館が駒場の地に建てられたのが1934年、今から80年前になる。
住み慣れたY街を離れるのは寂しいことだが、その住まいがあった場所から数分のところにこの建物があり、月に何度となく出かけたものだった。
館の構えは、壁面に瓦を規則的に並べ、瓦の目地に漆喰をかまぼこ型に盛りつけ塗るなまこ壁が印象的だ。
この界隈はポストモダン風な建物、打放しコンクリート、そして洋館と言った具合に瀟洒な家々が並ぶ、いわゆるお屋敷町。
とは言ってもこの民藝館がある一区画だけが異彩を放っているだけなのだが、ここを散策すると気持ちはいつになく晴れ晴れとするから不思議だ。
この建物だけ眺めると瞬間タイムスリップしたかと見まがうほど堂々たる佇まいが全体から伝わってくる。
この建物は、本館と西館に別れ、本館道路向いに建つ西館は当館主であった柳宗悦の住まいであった。
訪れる度に西館も見たいと思うのだが公開は月に4度のみ、そのチャンスをいつも逸し悔しい思いをしたことがある、実は今回もそうであった。
指を咥え眺めるだけであったが、本館に匹敵するほど重厚で、石屋根の長屋門(栃木県から移築)から侍が出て来るのではないかと思ったりするくらい見事な造りである。
宗悦が住まいとしたこの西館、そして本館も宗悦が図面を引いたと言う。
日本民藝美術館は、当初駒場に出来たものではなく、浜松がスタートであったらしい。
その2年後駒場に移設し、80年という歴史に繋いでいる。
民藝運動の中心人物であった柳宗悦の思想は、館内全てに染み込んでいた。
その工芸品たるや膨大で数え切れないほどの作品が収蔵されている。
玄関を入ると広い吹き抜けに、眼前には黒光りした部材と床に敷かれた大谷石が目に飛び込んでくる、中央に陣取られた階段は左右に分かれ、そして白い漆喰の壁面がこの館の存在を知らしめる。
靴を脱ぎスリッパに履き替え、シンメトリーに飾られた展示ケースに目をやる。
そこには大きな壺や大皿が鎮座し、俄然こちらを睨むようにその雑器が置かれていた。
10年振りに入った館はなにも変わってなかった、そして懐かしい旧友宅へでもお邪魔したかのような匂いが館全体を包む。
歴史は物語るとは良く言ったものだ、階段の手すりに染み込んだ手垢、どれほどの人がここを訪れ磨き上げられていったか、そんなことをつらつらと思い描く。
順路は二階からとなっていて、上がると展示室が4室(第2室-棟方志功旧蔵、「胸型井戸」と民藝、第3室-茶と美-柳宗悦の茶、第4室-茶と美-柳宗悦の茶)に別れ、そして大展示室へと構成されていた。
第1室は””を中心とした展示品が置かれている、17世紀末から19世紀後半の白磁や染め付けが時代の”もののあはれさ”を映し出していた。
染め付けや白磁は器の中で一番好きだ、人によっては冷たさを感じると言う御仁がいたが、触れたらガラスの欠片の如く壊れそうな存在に美を感じる。
その中でひときわ惹かれたのが”染付蓮池禽文角鉢景徳鎮釜”と銘打ってある角鉢だった。
縁は欠けてはいたものの面には青の濃淡と蓮花、そして鳥らしきものが描かれていて不完全な美が愛おしくさえ感じたものだった。
全体を眺めれば、柳宗悦は磁器ものよりも陶器ものが好きだったのではないかと思う、私感だが民藝という名を知らしめたのは生活に根ざした工芸品であり雑器が主であったように思える、となれば磁器ではなく陶器にその思いは強いのではないだろうか。
柳宗悦が著した”雑器の美”にこのようなことが書いてある。
”雑器の美など言えば、いかにも奇をてらう者のようにとられるかも知れぬ。
又は何か反動としてそんなことを称えるようにも取られよう。
だが思い誤られ易い連想を除くために、私は最初幾つかの注意を添えておかねばならない。
ここに雑器とはもとより一般の民衆が用いる雑具のい謂われである。
誰もが使う日常の器具であるから或はこれを民具と呼んでもよい。
ごく普通なもの、誰も買い誰も手に触れる日々の用具である。
払う金子とても僅かである。
それも何時何処に於いても、たやすく求め得る品々である。
「手廻りのもの」とか「不断遣い」とか、「勝手道具」とか呼ばれるものを指すのである。
床に飾られ室を彩るためのものではなく、台所に置かれ居間に散らばる諸道具である。
或は皿、或は盆、或は箪笥、或は衣類、それも多くは家づかいのもの。
ことごとくが日々の生活に必要なものばかりである。
何も珍しいものではない。誰とてもそれ等のものを知りぬいている。”と。
物の真贋を日常に見る力、既成の茶器に囚われない宗悦の眼はある種時代の尖端を走っていたような強い思いを抱いた。
今回久しぶりに見た器は宗悦が長年に渡り蒐集した品々、見る限り”不断遣い”等というものには全く見えず、美の世界をこれでもかと思い切り見せつけてくれた。
民藝運動の創設者宗悦、その仲間にはバーナード・リーチ、濱田庄司、河井寛次郎、芹沢銈介、棟方志功、黒田辰秋などと言った錚々たる面々が、彼を中心に工芸の在り方を模索していた。
その軸になるのがチラシの前面に出ていた大井戸茶碗、金継ぎが施してあり実にけれんみのない美しさだった。
名品という品も、使う人間によって無価値な物になることもある、日常にあるありふれた陶器や磁器にこそ彼は豊かさを感じ、それを後世に伝えようと民芸運動復興に力を注いだ。
宗悦の目利きは”ハレ”でなく”ケ”の中に美があったのだ。