エゴン・シーレ ~裸のその先~

赤ん坊は駅舎で産声を上げた。

祖父も父親も叔父も鉄道会社に勤務していた。

父が駅長として働く駅舎の一部が住居となっており、家族はそこに住んでいた。父と母と姉二人がいて、4年後に妹も生まれた。

この平和そうな家庭が、画家エゴン・シーレのルーツだ。

エゴン少年は10歳で見事な鉄道のスケッチを描いた。

幼い頃から鉄道のオモチャがお気に入りで、大人になっても汽車の玩具などを持ち歩いていたという。

蒸気機関車の音真似が得意という彼は、本当に鉄道が大好きだったのだろう。

しかし、鉄道員ではなく画業を志した。

彼は28年という極めて短い人生で、常識を超えた芸術を創りだした。

鑑賞者に向けて裸婦が両足を開いている。

彼は何故そのような挑発的なアートに挑んだのだろう。

芸術と呼ぶべきか、ポルノと呼ぶべきか、それはあなたの目で見極めるしかない。

エゴン・シーレは15歳で父親を亡くすと、翌年に美術アカデミーを受験して見事に一度で合格した。

父亡き後に彼を引き取り後見人となった叔父は、当然のように甥は鉄道員になるものと思っていた。

そのためウィーン美術アカデミーへの進学を叔父は反対したが、母が後押ししたという。

しかし悲しい事に、そんな母とエゴン・シーレは生涯心を通じ合わせることはできなかった。

その理由について、母マリーが芸術に理解がなかったからだといわているが、果たして理解なき母が美術アカデミーに進学させるだろうか。

私の推測では、母は息子の才能を理解し応援していたはずだ。

事実、幼い日に油絵の道具を与えたのは母だったという。

絵の才能は父親譲りと言われているものの、父は息子が絵を描くことを嫌った。

だから美術アカデミーの受験も父の死後なのだろう。

母は芸術に理解がなかったのではなく、息子の作品が赦せなかったのではないだろうか。

妹の裸体を描く息子に、母として理解を示せただろうか。

画家は亡き父を理想化して心を寄せていたようだが、私が知り得た情報では決して善き父親とは言えない人物だった。

父アドルフは新婚旅行中に売春宿に行き、娼婦から梅毒をうつされたとされている。

初夜に妻マリーが寝室から逃げてしまったことが原因で娼館に足を向けたのか、それとも娼館に行ったために新妻を怒らせたのか、その順序は分からない。

しかしいずれにせよ、呆れた行動だ。

夫婦が初めてベッドを共にしたのはその4日後で、結果マリーも梅毒に感染した。

それから夫婦は、何人もの子供を授かるが長女は10歳で亡くなり、エゴンの前に3人の息子が死産となった。

全ては先天性梅毒が原因だったのだろう。

父は病のために鉄道会社を早期退職し、まもなく精神錯乱に陥る。

飛び降り自殺を試みて未遂に終わるが、脳も精神も侵され翌年1月1日に他界した。

この時、エゴンはまだ14歳だった。

多感な少年期に、精神まで蝕まれていく父を見ながら彼は何を感じていたのだろう。

中産階級の家系ではあったが、父親が生前に混乱して鉄道会社の株券を全て燃やしてしまったために遺された家族の生活は困窮した。

死後まで家族を苦しめた父を理想化して、理解者であったはずの母に距離を感じ続けた。

それは、何故なのだろう。

私はエゴン・シーレという画家に小児性愛者の印象を持っていた。

なぜなら作品に描かれた少女たちが性器を見せつけるようなポーズをしていたからだ。

裸婦を描く画家は多いが、神聖さも美しさも取り払ってセクシャルなヌードで成功した画家は少ない。

二分法で言ったら「嫌い」に分類される類の感情を抱きながらも、この極めて現代的でミステリアスな作風に惹かれる人は多いだろう。

彼の作品を私が初めて見た時は、無表情な少女たちの局部から目を背けたくなりながらも、病的に骨ばった独特の表現と不思議なバランスの構図やポーズに魅力を感じた。

横たわる人物を足元から描いたり俯瞰で描いたり、様々な構図であったが、カメラのファインダー越しにモデルを眺めているような錯覚を覚えた。

ポーズについては文字にするのは困難だが、少し体をくねらせて手を小道具のように使っている。

“ジョジョっぽい”といえば漫画好きの人には雰囲気は伝わるかもしれない。

 エゴン・シーレは美術アカデミー合格した翌年にクリムトと出会った。

その後クリムトは父親のような存在となり、死ぬまで彼の支援をする。

同時に彼らは深い信頼と互いの才能を認め合う良き理解者となった。

クリムトのアトリエにはいつも多くの愛人兼モデルの女たちがいた。

ある時クリムトは、その中からヴァリーという女性をシーレに紹介する。

彼女はシーレにとって最高のモデルとなり、二人は同棲を始める。

当時シーレは21歳、4歳年下のヴァリーは17歳だった。

 ここで私が気になるのは、ヴァリーの年齢だ。

愛する妹ゲルトルート(通称ゲルティ)と同じ年齢なのだ。

子供の頃から仲の良かった妹をモデルに、シーレは多くの作品を制作している。

1907年には13歳だった妹を連れて、両親の新婚旅行の地トリエステへ二人旅をした。

あまりに妹と仲が良く、彼女の性器や裸体を描く画家には、近親相姦的なイメージが付きまとう。

画家にとって妹は分身のような、かけがえのない存在だったのかもしれない。

ゲルティは見事な赤毛だったが、ヴァリーも作品を見ると赤毛(もしくは赤みを帯びた茶色の髪)だったようだ。

何故ヴァリーが画家のミューズとなったのかを考えると、妹ゲルティの代役だったように思えてならない。

 1912年4月12日、ある事件が起こった。

アトリエに家出少女が舞い込み、その父親が誘拐されたと通報しシーレは逮捕されてしまうのだ。

未成年者への猥褻行為について疑いは晴れるが、猥褻な素描を流布させたとして3日間の禁固刑となり結果的に24日間に拘留された。

これを機にシーレはヴァリーと共にウィーンに居を移す。

そのアトリエの斜め向かいには、元鉄道職員のハルムス家があり二人の姉妹が住んでいた。

ヴァリーに映画のチケットを持たせて隣家へ向かわせ、姉妹を誘うよう頼んだ。

彼らはすぐに親しくなり、姉妹はモデルを務めるようになる。

画家は姉妹のどちらとも関係を持った。

そして最終的に妹エディットがシーレを勝ち取った。

裕福な中産階級の娘と結婚を決めたことで、4年間続いたヴァリーとの関係が終わった。

しかし画家はヴァリーにエディットと結婚するつもりだと伝えると同時に、これからも毎年1度は旅行に行こうと誘っている。

手離しがたい存在だったのか見下していたのかはわからないが、もちろん断られた。

ここでようやく私は思う。

画家は注目を集めるために挑発的な試みをしていたのではないか。

センセーショナルな話題作りとして、芸術や常識への反骨精神から性器を描き自慰する自画像を描いたのではないか。

シーレは25歳にして社会的な立場を考え、妻を家柄で選ぶような人物だった。

利己的で計算高い人物に思えるが、そんな画家が本能のままに少女や妹を描くだろうか。

確かに、町で少女を誘ってアトリエに連れて行きヌードを描くような行為は、疑わしい。

妹ゲルティへの感情も、疑わしい。恐らくシーレは父親が梅毒に侵されていく姿を見て、先天的梅毒を患っている自分の行く末を悲観的に思っていたはずだ。

死を恐れ、性を嫌悪した。

だから死人のような眼を描き、無表情な人物を描き、裸を描き、性器を描き、梅毒患者のような荒れた肌を描いた。

しかしそれは同時に、反骨精神の表れであり、人々の注目を集めるための手段だったのではないだろうか。

1915年、シーレはエディットと結婚する。それ以降、シーレの作風は変化した。

同じ裸婦像であっても刺々しさがなくなった。

グロテスクさも醜さもない。

美しさや優しささえ感じられるのだ。

家族を得たことで心が満たされていったのだろうか。

しかし結婚から4日で兵役に召集され、ウィーンに戻った翌年1918年の秋、妊娠6か月の妻がスペイン風邪で他界。

その三日後10月31日、妻の看病でシーレ自身もスペイン風邪に感染し28歳でこの世を去った。

あまりにも若くに逝去したため、シーレの作風は変化の兆しを見せるのみで終わってしまった。

数十年を経て画家として円熟期を迎えたシーレは、どのような作品を描いたのだろう。

それらを見ることはできないが、我が子の誕生をきっかけに題材は性から生へ変わっていったかもしれない。

画家が再び病に怯え、死に囚われるより前に、梅毒の治療薬の存在を知ったかもしれない。

1910年に発見された梅毒の特効薬サルバルサンは強い副作用があったが、1928年に誕生するペニシリンは安全で現在も使われている。

不治の病を完治した後、画家の作品はどのような芸術を生み出したのだろう。

エゴン・シーレをロリコン趣味やポルノだと揶揄する人も多い。

しかし私は早逝の天才芸術家ゴッホやモディリアーニと同じく、誕生しなかった名作に出逢いたかったと想いを馳せてしまう。


 

エゴン・シーレ(Egon Schiele)

愛する人にまつわる略年表

(1890年6月12日オーストリア トゥルン ― 1918年10月31日オーストリア ウィーン)

 

1890年 6月12日父アドルフ、母マリーの(第6子)3人目の子として生まれる。

1893年 長姉エルヴィラが10歳で他界。

1894年 妹ゲルトルート(通称ゲルティ)が誕生。

1900年 エゴンが絵に没頭していることを父が激怒し、作品を燃やしてしまう。

1902年 父は梅毒の進行におり、退職。駅舎から転居。

1904年 梅毒により麻痺が悪化に苦しんだ父は、窓から飛び降り自殺を図る。

1905年 父は苦しんだ末、1月1日に他界。叔父が後見人となる。

1906年 ウィーン美術アカデミーに合格。

1907年 クリムトと出会い、影響を受ける。

1909年 表現の自由を求め教授らに反抗し、アカデミーを退学。

反権力を原則に掲げた「新芸術家集団」結成。

1910年 叔父が後見人を退き生活苦となる。労働者層の少女らをモデルに選ぶようになる。

1911年 モデルのヴァリー・ノイツェルと同棲する。未成年との同棲を非難される。

1912年 誘拐と未成年者への猥褻行為の疑いで逮捕・告発される。3日間の禁固刑が決まり、約3週間拘留される。(ノイレングバッハ事件)

1914年 ゲルティが美術アカデミー時代の友人アントン・ペシュカと結婚。

1915年 ヴァリーと別れ、エディット・ハルムスと結婚。兵役に召集される。

1917年 ウィーンで軍の任務に就く。

1918年 2月6日脳卒中で半身不随となったクリムトがスペイン風邪で他界。

10月28日スペイン風邪により妊娠6か月の妻エディットが他界。

10月31日妻から感染したスペイン風邪でエゴン・シーレも他界。(享年28歳)

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