拙宅にエゴン・シーレの自画像がある、もちろん複製画だ。
亡くなったのは28歳、既に老成を想起させるこの自画像、顎を突き出し、眼は大きく見開き何かを見据えている、映像で言うならバストショットだ。
胸から下は描かれていない、左腕を一度描いたが消してしまったような痕跡が残るけれどもそれはそれで良い。
ここで美術評論家やキュレーターたちは謎を解くように解説し始めたりするものだが、そのような論議は不毛だ。
シーレの描く人物像は背景がほとんど真っ白だ、まさに無垢そのものに見える。
この自画像が何歳の時描かれたのかそんなことはどうでも良い、愚鈍なまでにパステルを握りしめ一気に描いたのだろう、線はシーレの無垢さを表しある種の凄みを感じる。
この自画像をじっと見つめていると、微笑んでいる絵ではない哀しみを堪えているようにも思える、その苦悩さから抜け出したいと誰かに問いかけているのだろうか。
シーレは言う” もしもぼくが自分自身を本当に見ようとするのなら、自分自身を直視せねばならぬだろう”と、この言葉が真実であるならシーレは常に直視することを避けていたことになる、けれども彼の内に直視せざるを得ない何かが澱のように沈殿していたのかも知れない。
シーレが執拗なまでに描くエロティシズムとは、神の啓示からの訣別であったのかとも思いたくなる、シーレの家族は北ドイツ系ルター派教会に属す中産階級であった、しかしシーレが生まれたウィーンはローマカトリック信者が圧倒的に多数派を占め、少数派のルター派信者たちにとって不遇な時代でもあった。
だが19世紀後半に入ると芸術・文学・建築などのプロテスタントたちの活躍に目覚ましいものがあり、その活躍の1人にシーレも入っていた。
だがそのような背景の下で、いつしかシーレは心の奥深いところで神の存在を否定するようになって行き、敢えて神と対峙する命題がエロティシズムへと変貌を遂げて行ったとも思えたりする……あくまで手前勝手な推測に過ぎないが。
それを匂わす言葉がある。
“彼は創造者でなければならない。彼は断固として、過去のものや旧来のものを頼りとせず、全く独自に、彼が信じる基礎を自分自身の内部に持っていなければならない”と、三人称で表現しているが、彼とはシーレそのものだ。
創造者、つまり神そのものを指している、シーレが神になると言うことだ。
過去の遺物、つまりアルカイックからの脱却であり挑戦状を叩き付けたようなものだ。
この自画像はとある画廊で求めたものだった、生来の性格からか衝動買いしてしまった。
美術館で画集を買うことはあっても、絵を購入したことなど一度もない、美術館で眺めるだけで充分だった。
それがなぜか買ってしまった、一瞬で惹き付けられ当方を手招きしているように思えたのだ。
時に拙宅を訪ねて来る友人の中に、先ずシーレの画を見て驚き、訝しそうな顔つきをする。
”どうしてシーレを買ったの”と言わんばかりの顔に見える。
大凡の人はシーレをある一方からしか見てないようだ、それも自由だ。
シーレが描く作品は退廃とエロスの描写が著しいが、日本流の陰気なしかも淫靡で欲情を刺戟するものとは違うものを感じている。
たとえ若さ故の猥雑事件を幾度か起こしたとしてもである。28歳、命には限りがある、どの美術評論を読んでも死を暗示したモチーフだと解釈されたものが多いが果たしてそうだったのか……そうは思えない。
死と直結するものと言えば第一次世界大戦である、そこはまさしく死の入口だ、だがシーレは幸運にも前線勤務を免れ捕虜収容所で看守という立場で任務を遂行していただけだった。
厳然と死と向き合うのはこの戦地だけである、それ以降シーレは全く自分が死ぬなど考えたこともなく、日々考えていたのは何をモチーフに描くかそれしかなかったはず、それがたまたま目の前にいたクリムトから紹介された裸婦モデルとの邂逅が徒にもデカダンスという異名を付けてしまったのではないのだろうか。
但し、芸術家は凡人には持ち得ない狂気という武器が備わっていなければならない。
人体の下腹部や交わりだけを強調したからと言ってエロティシズムはとは呼べない、彼は妙な烙印を付けられたまま黄泉の国へ旅だってしまった。
スペイン風邪にならなければ、また違う異名をつけられた、かも知れない。
それともとこしえにデカダンスでしか生きられなかったかも……。