無垢の画家、熊田千佳慕

アリが縦列を組んで懸命に餌を巣に運んでいる、

道路規制もない昆虫世界の中でアリはコースを外すことなく、一列になって冬ごもりの支度に精を出している。

誰もが子どもの頃に、こんな場面を1度くらいは見たことがあると思う、でも大人になると足下の世界で何が起きているかなんて忘れてしまうのが常だ。

光が射さないところに雪が未だ消えずに残っている、人間どもは交通機能のマヒで大騒ぎしているけれども、その積雪の地下ではアリたちが春の声を今かと待ちわびながら冬眠していることだろう。

仕事に行き詰まると狭小の庭でアリの群れをよく眺める、餌を運ぶ順路が決まっているかのようにアリたちは往復を繰り返す、その中でぶつかるものもいれば、前肢で相手の身体によじ登りながら指定コースを外さぬようアリたちはせっせと冬支度に勤しんでいる。

相手が邪魔なら迂回でもすれば良いのにと思うのだが、彼らの世界は人間とは違うレギュレーションがあるようなのだ、なんともその光景は慎ましく勤勉であることだろうか。

 

その慎ましさを実践し日常の一切を昆虫や植物の描写に捧げ、ファーブルをこよなく愛した画家がいた、熊田千佳慕(ちかぼ)。

彼は60歳を過ぎてから亡くなる98歳(2009年)まで”ファーブルの昆虫記”を絵に託そうと考え、生涯を虫の世界に没頭し続けた。

ファーブル昆虫記の絵本で高い評価を受け、「日本のプチファーブル」と呼ばれた画家である、熊田が描くそのタッチたるや目を見張るものがある。

昆虫の細かい毛や、植物の葉脈一本一本にいたるまで、丁寧に描かれたその細密画は本物と見まがうばかりで喉元で唾を飲み込むような画に驚嘆した。

絵本は子どもの頃より慣れ親しんだ、知らずの内に熊田の絵と出会ったこともあっただろう、しかし家族ができるまで”熊田千佳慕”と言う名は知らなかった。

個人的には、具象画や細密画のようなものには目もくれず、それより実験性を伴う絵画に心惹かれ、熊田の存在とは違う世界に酔いしれていた。

そして熊田千佳慕の存在を更に知らしめたものはテレビでのドキュメンタリー番組”私は虫である”だった。

 

イタリア・ボローニャ国際絵本原画展で「クマダの虫は生きている」と高く評価され、日本人初の入選を果たした高名な画家であるのに、生活は謹厳なピューリタンそのもの、家も昭和の名残があるような慎ましい営みの中で彼は水彩画を描いていた。

その画は今にも虫が這い出しそうな勢いで描かれている、それも何日も時間を掛けての描き方である。

一本の線を描くにも熊田は納得するまで根気よく絵筆を握りしめ、時の経過を忘れるほどにスケッチブックと向き合っていた。

凡百な欲望に明け暮れる身にとって、到底真似のできない日常であり、我が身の愚かさが痛いほど伝わってきたのであった。

熊田が画のスケッチに出かけて行く、どこか飄々としていてその姿からは画家とは思えない風貌であった。

一心不乱に草むらをかき分けていく、そして何か視界に入ると地面に腹ばいになって草花や昆虫たちを見つめる、その眼差しは無垢なほどに汚れのない表情であった。

熊田はそこから離れることなく、その対象物を長い時間見つめている、誰が来ようと恥ずかしさなどない、そこには熊田千佳慕の世界が訪れているのだ。

“虫たちは今日を悔やんだり明日を思い悩んだりせず、今、この瞬間だけを懸命に生きている。

その生涯を精一杯全うしようと最期まで命を燃やし続けるのだ。

そのことに気がついたら花や葉が枯れ落ちて土に還っていく姿まで美しいと感じるようになった。

自然は自らの美しさを知らないから美しく奥ゆかしい、私はその虫の美しさに心惹かれるのである”と熊田千佳慕は言う。

熊田が描く世界は、確かに徹底した観察にもとづく細密画であるが、そこに視線を向けているのではなく熊田自身の内にある”生命の重さ”を感じざるを得ない。

それを象徴している言葉がある”虫や花たちは今日を悔やんだり、明日を思い悩んだりせず、今この瞬間だけを懸命に生きています。

その生涯を精一杯まっとうしようと、最後まで命を燃やし続けるのです。

そのことに気がついたら、花や葉が枯れ落ちて土に還っていく姿まで美しいと感じるようになりました。

自然は自らの美しさを知らないから美しく、奥ゆかしい。その美しいという感覚は、愛がなければ持つことができません”と。

熊田は”虫は私であり、私は虫である”さらに”花は私であり、私は花である”と、自身をなぞらえた。

生きるものへのオマージュだろうか、いや違う、すべて生きとし生けるものこの世に無用なものなど存在しないのだと言っているような気がしてならなかった。

雪解けが待ち遠しい、溶けた雪から春のいぶきが顔を覗かせ小さな生き物たちが息を吹き返す、まだアリたちは眠りから醒めてない。

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