アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 70

戦争当時の緊迫感が漲る博物館

~ ヴェトナム ホーチミン 統一会堂 ~

地球上で暮らす人々の全ては、平和で安らかな生活を望んでいる。

そのことに疑問を差し挟む余地などないだろう。

ところが、世界のどこかで絶え間なく戦争が起こっている。

 

第二次世界大戦後は、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソヴィエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営に、世界が二分された。

盟主が直接抗戦することはなかったが、世界の各地で数々の代理戦争が起こった。

 

東西冷戦構造は1989年12月に、マルタ島で開催されたジョージ・ブッシュとゴルバチョフの会談によって終結宣言が出されはしたものの、その火種が完全に消えたというわけではない。

 

第二次世界大戦直後に勃発した朝鮮戦争は、1953年に北緯38度線を軍事境界線として休戦したが、このラインを挟んで東西両軍が睨み合う状況に変化はない。

 

写真(遺跡70-2)

 

朝鮮半島ばかりでなくインドシナ半島も、冷戦の戦火に見舞われた。

1955年に北緯17度線を国境として国土は南北に分裂し、北部にはソ連を後ろ楯とするヴェトナム民主共和国、南部にはアメリカが支援するヴェトナム共和国の2つの国家に分裂した。

北ヴェトナムには南北統一を目指して、南ヴェトナム解放民族戦線が組織される。

朝鮮半島での戦火が飛び火したのか、1960年12月には南ヴェトナム解放民族戦線が、南ヴェトナムに対して武力攻撃を始めた。

これに対して南ヴェトナムは、アメリカとの絆を強固にして徹底抗戦する。

 

世界的に反戦活動が展開されながらも、インドシナ半島での戦線は、拡大し長期化する。

南ヴェトナム領内でゲリラ活動を行うヴェトコンに対して、上空から枯葉剤がまかれたこともある。

南ヴェトナムの軍事作戦は、現在のホーチミンに建つ独立宮殿で行われた。

建物はフランス領インドシナ時代の1873年に、フランスによって建設されたトンニャット宮殿をそのまま利用した。

しかし、1962年には南ヴェトナム軍将校によるクーデターが発生し、戦闘機の爆撃によって大破した。

一時的に南ヴェトナムは中枢機関を失ったが、ゴ・ベト・チューの設計によって直ちに4階建ての現代的な建築が再建された。

その後、ヴェトナム共和国の大統領府とされグエン・バン・チュー以降、3代の大統領がアメリカの支援を受けながら政務を行った。

ところが、莫大な軍事費を投じ続けたアメリカに戦争反対の世論が拡大し、1969年に選出されたニクソン大統領は、ヴェトナムの兵力を縮小し続けた。

これによって南ヴェトナム軍の戦力は著しく弱体化する。

1975年になると北ヴェトナム軍は3月にホーチミン作戦を展開し、南ヴェトナムの全面攻撃を開始した。

4月中旬には領内全域に駐留していた南ヴェトナム軍の大半はサイゴンに撤退せざるをえなくなる。

戦火が迫る中、数多くのサイゴン市民は国外への逃亡を図り、南ヴェトナムの首都は大混乱に陥った。

南ヴェトナムの軍事施設が次々に占拠され、ついに4月30日に独立宮殿の門をヴェトナム解放軍の戦車が無血入場を果たした。

焼く15年間にわたって続いたヴェトナム戦争は終結し、翌年には共産主義国家のヴェトナム社会主義共和国が成立した。

同時に、独立宮殿は統一会堂に改名された。

広い国土を焦土化しながらも戦火を免れた統一会堂は、戦争当時の形で残された。

現在は博物館として一般公開されている。

内閣会議室、バンケット、講堂などの部屋にははりつめた緊迫感が今でも漲っている。

戦争当時は軍事機密を議論する作戦会議が何度も行われたことだろう。

ヴェトナムの歴史を生々しく体感できる空間だ。

 

写真(遺跡70-4)写真(遺跡70-3)

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