イスラムの地、東京ジャーミイ

小田急線の東北沢から代々木上原を通過する際、車窓から鉛筆を削ったような塔が見える。

それは東京ジャーミイ、トルコ共和国在東京大使館所属のオスマントルコ様式のモスクだ。

旧宅を訪ねて来る友人たちにはこのモスクが目印だった、そこから間もないところに拙宅があり、案内をするには打って付けの建物であった。

初めての客人たちは一斉に声を張り上げ驚いたものだ、住宅街に屹立するそれは殆どの日本人がこれまで見たこともない建物であったからだ。

 

平成12 年に老朽化のため再建されるまでのジャーミイは、道路も狭かったことから薄暗く人を寄せ付けない雰囲気があった。

その前を通るとコーランを読む声が聞こえたりもした、一瞬日本ではない土地に紛れ込んでしまったかのような錯覚を覚えたりする、夜ともなると塔に灯りが灯り異国情調はさらに膨らむ。

ジャーミイが建て替えられるまで、イスラム教徒の人々はムスリムを身に纏い、女性はヒジャブで頭髪を隠し、男性は白い帽子を被り道路脇の僅かな空き地を利用し西北西(聖地)に向かって礼拝をしていた、このジャーミイの意は”金曜礼拝など集団での礼拝が行われる大きなモスクのことを指すらしい。

ジャーミイの裏には木造校舎のような2階建物がある、これは東京回教学校子弟の教育の場として建てられたもので、どこか昔の小学校の校舎を彷彿とさせる。

 

そもそもこの回教寺院ができた背景は、1917年のロシア革命の際に約600名のイスラム系回教徒が弾圧を恐れて満州(現在の遼寧省瀋陽市)を経由し、日本に避難してきたことに始まる。

その内約200名のトルコ人(トルコ系タタール人)が東京周辺に定住、そして1924年に東京回教徒団が結成された。

昭和初期に大陸へのアプローチのひとつとしてトルコと手を組みたいという日本の軍部や政治指導者の思惑もあり、財界人や当時の山下汽船の代表(山下亀三)から500坪(学校が300坪、教会が200坪)の土地を安く提供してもらったのだという。

その立役者が亡命者タタール人のムハマド・クルバンアリー、彼がいなければ学校も建たなかっただろうし、教会もこの地に出来なかったであろう。

 

大久保百人町で学校はスタートし、その後富ヶ谷へと移り、そしてこの代々木上原の地に落ち着いた。

(渋谷区大山町誌より抜粋/非売品)。

建物は石造りで片側には塔があり、その様式はイスラム建築の典型的なものだ、まるでコルドバの回教寺院を思わせるような合理的建造物に見えた。

建物の線の組み合わせは幾何学的で石の装飾も大袈裟ではなく、厳かな装飾模様が無限に続いている感じである。

優雅で調和の取れた建築物、日本に於いてこれほど繊細な建築は見つからない、日本の代表的建築物は木造であり、石の構造物文化に慣れ親しんでないせいだろうか、無論昭和初期に見られる洋館はあったが、その趣きとは一線を画し合理的且つ抽象的表現の徹底さが見られるのだ。

モスク建設に尽力したムハマド・クルバンアリーは、突然スパイ容疑で警視庁に検挙され、終には国外退去までさせられてしまった。

この時代、既に日中戦争も勃発しており、それに繋がる太平洋戦争への道筋も敷かれ日本は混迷の中にあった。

ムハマド・クルバンアリー国外追放の理由は、軍部や政府のイスラム政策にとってクルバンアリーが邪魔になったからだと言うのだ。

彼はトルコ系民族の小学校やモスクの建設、そして在京タタール人生活向上のために力を注ぎ労苦を惜しまず奔走しただけなのに、日本の実権を握る為政者たちは信仰篤いイスラム教徒の人間をいとも簡単に追放してしまった。

戦時下における人間の行動、思考というものは予測付かないほどに恐ろしく、人間の尊厳まで奪ってしまう危険な引力は民衆を巻き込む引き金となり、望むべくもない悲劇がそこから生まれるのである。

第二次大戦の東京大空襲でほとんどの家は焼け野原となってしまったが、幸いにもモスクは戦禍を免れ在京タタール人たちの希望の礼拝堂は焼けずに残った。

だが時を経て塔の真ん中だけはコンクリート製で出来ていたが、他は木造2階建ての寺院であったために経年変化も進み、雨水やひびなどによって至る所が濡れて腐り、修復ができないほどに建物は損傷が酷く昭和61年に取り壊されることになった。

 

再建するまでの時間は長かったような気がする、しばらく更地の状態が続き、異国の地は静かに眠っていた。

そして、再建のためこの地を在京タタール人たちはトルコ政府に寄付し、トルコ政府のバックアップによって建て替えられることとなった。

集まった寄付金は12億円、簡単に集まる金額ではない。

図面はトルコ人、基礎工事は民間の建設会社が請け負い、内外装の仕上げはトルコ人70名の職人によって作られていった、それも本国から呼び寄せ、しかもタイルや大理石をトルコから搬入したと言うのだからその意気込みは計り知れない。

トルコ人の職人たちの技を見て、日本人と共通する生真面目さと律儀さを感じた、仕事を続けながらも西北西へ向かっての祈りは欠かさなかった。

完成したのはなんと記念すべきミレニアム・イヤーの4月に仕上がったのである、その様式は16世紀のオスマントルコ時代の幾何学的構造物の構えである。

日曜日ともなると、三々五々ムスリムの衣裳を纏った方たちがモスクの中へ消えていく、時に日本人の顔もちらほら見かけることもある。

平日でもモスクは開放されており、自由に中を見学することが出来、しかもトルコ文化の歴史を受講できるので興味のある方は一度見学することをお薦めする。

モスク11

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