「子供達の目に見えている対象物の真実って一体?」

普段、何気なく道を歩いていると公共の地下通路などを利用する時があります。

別に好んで利用している訳では無く、ただ移動手段として活用しているのですが、公共のものという強みなのか、よく何かしらの作品が飾ってあります。

オブジェのような彫刻作品などもたまには見受けられますが、殆どの場合が絵画ですよね。

 

地域によっては、ゆかりの作家が描いた作品のアーカイブなどを展示しているようですが、かなりの確立で小学生や幼稚園生などが描いた抽象的な作品が飾られていると思います。

見ているだけで心が和むようなそんな作品達は、アートという視点というよりも慈愛の目で見てしまう、癒しの風景として捉えられているのではないでしょうか。

さて、小学生達が描く作品の中には、取り分けとんでもないものが混じっていたりします。

シュールレアリスム的な描写で、凄まじく絵がうまいと言える作品です。

小学生らしさが無いと言えば無いのですが、この子は将来凄いことになりそうだ…と、いうような目線で見てしまうこともあるのです。

それって、別にどんな子であってもどうでも良いのですが、何となく新人発掘を担当している美術家のようでちょっと楽しかったりします。

何気なく、横目でサラサラっと流して見ているのと、そういった将来性などを考えて絵画を見るとでは、全く見える景色が違ってくるのです。

そして、よくよく考えてみると怖いのが幼稚園などの子が描く作品です。

 

ちょっと話題が逸れてしまうかもしれませんが、写真の事を考えてください。

普段、何気なく写真作品などを見ていると思いますが、要するにあれは、カメラマンが見ている目線を写真という媒介を通じて表現した作品です。

つまり、大袈裟な事を言ってしまえば、そのカメラマンの目に写っているものをコチラ側も一緒に感じることができる、その人が見えている世界を知ることができる…ってな事になります。

風景作品であれば、その風景の写真を撮ったその時の目線と出来上がった作品を見ている私達は共有している事になりますよね。

そのため、写真を見ればその人の人生観が分かる…と、言われている意味も分かりますよね。

と、いうことで、話を絵の方に戻していきますが、子供は想像性が豊かでありながらも、大人のように何かしら想像したものを具現化させていく才能はありません。

そのため、目に写っているものをそのまま描くしか無い訳です。

もちろん、そこには想像も入ってくるでしょうが、その対象物を見たままを記憶をたどりながら書く訳です。

さて、ここからが本題なのですが、色使いの斬新さが怖いのです。

例えば、パパという題名があったとして、そこに写るパパは人形風の人形といったようなカタチが真っ赤にぬられているだけ…と、いうことがあります。

さらには、首が無かったり…。

それは、技術も色彩感覚も備わっていないという事ですが、冷静に考えたら凄いことです。

自分だって、真っ赤に彩られたパパの絵がどこかで出てきても、本物のパパとは思わないでしょう。

しかし、書いた本人はパパというイメージを出来るだけ具象化して描き上げているはずです。

と、いうことはその子の目に写るパパはそのような写っている訳です。

まさか、全てがそう見えている訳ではありませんが、今持っている技術と知能を振り絞って書いたものがこうだとしたら、園児達の目線というのは、物凄いものなのでは無いか…と、思ってしまったのです。

まぁ、さすがに突飛しすぎた話ではありますが、そうとも捉えられるのではないでしょうか?ちなみに、9歳という年齢で両親に家プレゼントしてしまったイギリスの天才画家「キーロン・ウィリアムソン君」が2011年頃話題になりましたが、彼の描く作品はレアリズム的な風景画が中心でした。

彼の技術は勿論ですが、そのように描けるということは、世界が彼の目には写っていたとも考えることができます。

人間というのは、本当に不思議ですよね。

みなさんも、角度をちょっとだけ変えて、子供達の描く作品を眺めてみてはいかがでしょうか。

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