葛井欣士郎を偲ぶ

葛井欣士郎(敬称略)の訃報を知った、それもネットの新聞紙上である。

 

亡くなったのは4月30日、偶然にも寺山修司の元妻であった九條今日子も期せずして同じ日だった。

九條は寺山の右腕となり”書を捨てよ町へ出よう””田園に死す”のプロデューサーとして辣腕を振るい、時代の情況をあぶり出す作品を撮っていった。

寺山と葛井との関係性で言えば、当時歌人であり、劇作家そして舞台演出家であった寺山の才能に葛井は着目し、実験映画を託した。

寺山の才能が開花したのも葛井がいたからこそ出来たのであり、常に葛井は時代のうねりの中でヌーベル・バーグの旗手を探し求めていた、その中の1人が寺山だった。

葛井は実験映画を目指し、才能溢れる監督たちを嚮導し、”ATG(アート・シアター・ギルド)”を作った唯一無二の存在であった。

1962年にATGは幕を開け、手始めは尼僧ヨアンナ、野いちご、去年マリエンバードで、82/1と数多くの優れた洋画が各劇場(東京3、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡、札幌各1)で公開が始まった。

純粋の芸術映画、そして映画を前進させる意図の下に作られたATGは、6年後の2月ATG映画第一作、大島渚監督の”絞死刑”が封切られ若者たちのファナティックな支持を受け街は騒然となった。

 

あれから46年の歳月が過ぎて行った。

 

若松孝二が旅たち、そして大島渚が逝き、その大黒柱であった葛井が永遠の眠りについてしまった、無念の一語に尽きる。

ATG映画・演劇のプロデューサーの葛井欣士郎、齢88。4月30日の淵は私にとって心穏やかにあらず、銛が身体に突き刺さったまま海底深く沈み込んで行くようだ。

 

私はATG 映画の後半に葛井と出会い、末席ながらもATGのなんたるかの薫陶を受けたのであった。

ATG映画……それは映画の芸術性を正面から問い、時代を吹き過ぎていく実験室のようなものだった。

ATGと言う母船は消え、気持ちの癒えぬままにテレビの世界へと移り、恩師である葛井との往き来は当然少なくなっていった。

いつしか葛井を主題としたテレビ番組を作りたいと念じていたが、思うように事は進まなかった。

そしていくつかの年を通りすぎ、ようやく7年前にチャンスが巡ってきた。

それまでは新宿のマンションの一室で葛井とATGの昔話を語らうだけで精一杯だった。

なぜなら葛井はテレビが好きではなかった、視てもニュースの類か動物ものぐらいであったと記憶している。

テレビを話題にすると少しばかり眉間に皺を寄せ、不快な顔が垣間見られたからだ。

従って、番組の趣旨など言えるはずもなかった。

葛井にとってテレビは情報を送り出す筺に過ぎず、葛井が目指す芸術性の欠片ひとつさえもそこにはなかったのだ。

葛井の自宅を何度も通い、企画を打ち明けるチャンスをうかがっていた。

葛井は住み慣れた新宿から市ヶ谷へと居を移し、数ヶ月が過ぎた頃、勇気を振り絞り番組企画を吐露したのである、それも直接ではなく手紙という手段を使ってだ、なんとも情けない話である。

手紙が届いた頃を窺い電話をする、こちらの心配とはよそに即承諾してくれた。

但し、その手紙にはカメラを回すとは記述していなかった、番組化するために取りあえず話を訊くとしか記さなかった、デジカメ、テープレコーダー、そしてカメラを携え恐る恐る市ヶ谷の長い坂道を上っていった。

図らずも、葛井の著書”遺言(河出書房新社)”が平沢剛によるインタビューが同時期に始まっていたのだった。

正直先を越されたと思った、未だ誰も葛井に近づいた者はいなかったし私が嚆矢だと息巻いていた。

 

当時、世界の映画人・研究者たちの間から”アート・シアター・ギルドとは何だったのか”と論議がなされる中で、ATG創立50周年を記念し、国内外で様々なイベントが開催されていた。

2003年には日本映画史のなかできわめて特異な運動であったATGをめぐって、ウィーン映画祭の特別企画として33本が回顧上映され、葛井は講師として招聘されていた。

また国内の大学に於いてもあちこちから葛井は講師として招かれATG映画について壇上に立っていた、講師としての活動は身体が悲鳴を上げるほど疲れると嘆いていた。

そんな中での出版物と映像の記録、時間を割いて引き受けて下さった。

とにかく忙殺極まる日々の中で葛井は身体に鞭打ちながら各地を駆け回っていた。

1時間ほど世間話に花が咲き、カメラのことをなかなか言い出せずにいた。

テープレコーダーは既に3分の1ほど回っていた、早くカメラを回したいと思いつつ、時間が迫り来る中で覚悟を決め鞄から取り出した。

“実はカメラも持参しています、回しても良いですか”と単刀直入に訊いた。

一瞬怪訝そうな顔つきをし、”顔を映されるのは厭だ、だけど君が撮るなら良いよ”と言ってくれたのである。

そこから一気にカメラを取り出し、三脚もない中カメラを回した、正面からのカット、右からそして左からと、手持ちで回したこともあった、だから画面が揺れている場面もある、それも良しと我が身に言い聞かせた。

午後一時にスタートし、インタビューが終わったのは夜の10時、時間経過も知らずに夢中でインタビューに埋没していた。

それは葛井も同じだった、81歳になる葛井が私に口角泡を飛ばしATGの思いを語ってくれたのである。

こんな嬉しいことはないではないか、今もなお感謝の念に堪えない。

亡くなる2年ほど前より体調を崩し、歩くこともままならぬほど憔悴していたことが今も頭に浮かぶ。

88歳という年齢は長寿と言えるのだろうか、酒は滅多に呑まなかったが煙草は好きだった、常に指先には紫煙が舞っていた。

故に病などなにもない気丈夫な方だと長年そう思い続けてきた。

しかし、3年前位より不調を訴え以前のような元気な姿でお目に掛かることもなくなってしまっていた、お目にかかる時はいつも身なりをきちんとし、論客としての威風はもちろんのことダンディズムを貫く人だった。

だから、紙面上の顔写真は頂けなかった、もっと素敵な写真があったはすだ、アヴァンギャルド映画そして演劇界の世界に身を投じてきた男の顔にふさわしい写真が欲しかった。

今はただただ安らかにと祈るばかり、今頃は寺山修司、黒木和雄、実相寺昭雄、大島渚、若松孝二……三島由紀夫など錚々たる人物たちと再会を果たし祝杯を挙げている、かも知れない。

未だDVDに収めた映像は日の目を見てないが、それはそれで仕方ないことだと思っている。

テレビ関係者数人に話を持ちかけ、ダイジェスト版にまとめた映像をプレビューしてもらったことがある、殆どの制作者たちは異口同音に”プロデューサーでなく……映画監督であったならば面白いのに”と、いまだこんな事しか言えない連中がいることにがっかりし、話を持ちかけたこと自体間違いであったと後悔している。

この映像が耳目を集めずとも、私にとっては大切な映像である。

葛井のインビューでATG関連のエピソードがたくさん遺っている、少しでもその情報を今後も伝えたいと思っている。

関連記事

アーカイブ

ページ上部へ戻る