タイトルが少々オーバーに思えるかも知れないが、映画に於ける美術(セットや小道具などの類)は四次元の空間を指す。
四次元は三次元の空間に時間という概念が加えられたものだ。
三次元は空間のみであり、そこには時間が存在しない、従って永遠に変わることのない無限の立体が存在している。
そこに時間が加わると四次元という世界が登場する、いささか理屈っぽいが、映画を包括する上で重要な要素となる。
その空間を導いてくれるのが今回、竹橋の東京国立近代美術館にて”映画をめぐる美術-マルセル・ブロータースから始める”が開催されている(4/22〜6/1)。
映画を”視る”ことから”読む”ことへ意識転換させる創作活動が、1990年代以降の写真やビデオ、インスタレーションを理解する上で重要な手がかりになるという視野のもと、エリック・ボードレール、マルセル・ブロータース、ドミニク・ゴンザレス=フォルステル、ピエール・ユイグ、アナ・トーフ、アクラム・ザタリ、ダヤニータ・シン、シンディ・シャーマン、アンリ・サラ、アイザック・ジュリアン、ミン・ウォン、やなぎ みわ、田中功起など13名のアーティストによる作品が紹介されている。
その展覧会の説明書のヘッドには”映画を読む。
言葉はどこかしら?”のキャッチ、映画を読む……本来映画は視るものであって、読むものではないと言うのが一般人の解釈だが。
さらにサブタイトルにマルセル・ブロータース(Marcel Broodthaers、1924〜1976)から始めるが付け加えられている。
展示室は6つのブースに分かれ、カーテンで仕切られていた。
まずその導入部がサブタイトルのマルセル・ブロータースの作品だった。
薄暗いブースから映写機で投影される言語、そして少女の声が聞こえてくる。
僅かに理解できるフランス語、されど実体を掴むことは難しかった。
こちらが懸命に理解しようと思えば思うほど、脳内は拒否反応を示す、これは一体なんだろうか。
ブロータースは元々詩人からスタートした芸術家で、言語とイメージの関係を手がけるオブジェや写真・短編映画の制作、さらには日記や出版などの著述など幅広い創作活動を通し戦後美術界を大きく変えた人物の様だ、様だと書いたのは当方の知識不足が原因でブロータースの名は知っていても、その知識は上っ面のものでしかないからである。
“ブロータースの映画の特徴は、普段は当たり前すぎて気にも留めない言葉やイメージが、不透明で見慣れぬ、ノンセンスなものとして立ち現れてくることにあります。
そのような事態を前に私たちは、言葉とイメージの間、言葉と言葉の間、そしてイメージとイメージの間を跳躍し、自らそこに接続線を引くような行為、すなわち映画を「読む」ことへと誘われていきます”と、美術館の概要に書かれていた。
学芸員が書いたであろうこの概要は分かりにくい、せめて概要ぐらい素人でもすっと入っていけるような文体で書いて欲しいものだ。
日常の中にはあらゆる言葉が氾濫し、見たくないものまで視界に入ってしまう、それを一番感じるのは看板だ。時折、面白いものに出くわすこともあるが、立ち止まるまでは行かない。
映画のポスターの前で立ち止まるのなら問題はないが、人によって興味を惹く対象物は様々である、そこへもってきて人目をはばかるような文字や写真に心奪われたらどうだろう、第三者からは好奇の目にさらされるのが落ちだ。
現代美術に感じることだが、既に設えた絵やインスタレーション、そして映画などに対して観客たちはそれなりの”覚悟”をもって入館するのではないだろうか。
言葉とイメージの間になにが隠されているか、作者は何を訴求しているのかと言った具合に、あらぬ勘ぐりを持ち対象物と向き合うのだと思う。
具象画であればそのままの意識で鑑賞するだろう、従ってブロータースが言うような”イメージとイメージの間を跳躍し”と言った言葉すら無機質であり意味を持たない空虚な説明にすぎない。
現代美術を観る側にとって、あらかじめ何かしらの”用意”は出来ている。
映画を「読む」ことへと誘われていく……のではなく、観客側からすれば既に”理論武装”という鎧を着用し館内へ入っていくのである。
故に、美術館からの余計な説明はかえって観客たちを惑わしてしまうのではと思うことが度々ある。
美術の中で現代美術が一番好きである、それはある種の概念を壊してくれるからだ、命題などというものは作家のもので、観る側にとってはどうでも良い、つまり面白いか、面白くないかの何れかだ。
ポパイなどの雑誌を手掛けた、アートディレクターの新谷雅弘が面白いことを言っている。
”人は雑誌をキャプションから読む”と、読者は興味のある写真を見つけるとまずキャプションを読み、タイトル、リード、本文へ進むのだそうだ。
つまりメインディッシュは後回しということなのだ。
キャプションも文字ではなく、ひとつの画像となって読者は好悪を決めているのかも知れない。
13名の作品をじっくり観たが、こちらを驚かせてくれたのは残念ながらなかった。
その中で、興味を惹いたのがアナ・トーフの”乾杯”という映像だった。
椅子に座った男がワイングラスを片手に持ち映写機から”vérité”と言う文字が映し出されている、映写機からは”真実”というフランス語が絶えず流れているだけ。
これこそ、今回の”映画をめぐる美術”展にふさわしい作品ではないかと思えるのだが。
真実などこの世になにひとつないのだ、あるのは視界から猛烈な勢いで入ってくる情報と具象物、そこから果たして人は何を感じ、何を思うのだろうか……そんなことをアナ・トーフのvéritéから教えられた気がした。