アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 71

中国最後の王朝誕生の歴史を静かに物語る宮殿

~ 中国 瀋陽 故宮 ~

日本海を挟んで日本と接する国、中国は現在では13億人を超える人口をもつ世界最大の国家だ。

中国の政治的なイベントが紹介される際には、必ずテレビの画面に映し出されるのが天安門だ。

 

天安門は1421年から1912年にわたって皇帝が暮らした宮殿、紫禁城の南の正門だ。

創建後役600年もの長い間、首都北京の市街地に創建当初の姿で現在に残り、現在では故宮博物館となっている。

 

写真(遺跡71-2)

 

首都北京から北東に約800キロに位置する瀋陽にも、もう一つの故宮が残されている。

瀋陽は現在では遼寧省の省都であり、人口800万人を超える中国、東北地方の中心都市だ。

第二次世界大戦当時の日本では、奉天という名前で呼ばれ数多くの日本人が移住した。

 

中国史においても古い歴史をもち、郊外には約7000年前の新石器時代の定住集落、新楽遺跡が発見されている。

その後の唐代には瀋州が置かれ、元代には瀋陽路、明代には瀋陽中衛が置かれた。

そして、明代末期に瀋陽を舞台として、中国の歴史を塗り替える政変が起こった。

 

1619年、建国間もない後金を討伐するために明の軍隊が派遣された。

この軍を女真族のヌルハチがサルフで退けた。

10万の大軍に打ち勝ったヌルハチは瀋陽を都城と定め、遼河の東方エリアの全域を支配下に置いた。

その後を継いだ息子のホンタイジは、山海関以北や南モンゴルを征服し、1636年には女真族、モンゴル人、漢人の代表による会議で、元の末裔と伝えられるリンダン・ハーンの遺子エジェーイから元の玉璽を譲り受け、大清国皇帝に即位した。

瀋陽故宮は後金から大清に号が変わる過渡期に、建設された清王朝最初の皇城だ。

ヌルハチが1625年に建設を開始し、第2代のホンタイジ時代の1636年に完成し、盛京皇城と呼ばれるようになった。

1644年には、第3代世祖、順治帝が北京遷都したため、皇城としての役割を失ったが、引き続き清王朝の副都宮殿として大切に保存された。

 

写真(遺跡71-3)

 

瀋陽の故宮の規模は、北京の故宮の約12分の1だが、6万平方メートルの面積の隅から隅まで歩くのは一苦労だ。敷地内には70あまりの建築物が整然と並び、建物を構成する部屋の数は300を超える。

建築様式は中国の伝統的な宮殿建築とは少し異なり、漢民族、満州民族、蒙古民族が培った様式が融合されている。

正面玄関の大清門を潜った内部の敷地は大きく、東路、中路、西路の3つのエリアに分かれている。

中路の中央には、ホンタイジが政務を行なった崇政殿が聳え立つ。

透かし彫りによって竜紋の装飾が施された中央の玉座には、皇帝の威厳が満ち溢れている。

崇政殿の奥に建つ三層構造の鳳凰楼が、後宮への入口となる。

皇帝のプライベート空間の一番奥に、ホンタイジと皇后ボルチジの寝室として使った清寧宮がある。

清寧宮の東、つまり東路の最も奥に、大典が行われていた大政殿が建つ。

黄色い瑠璃瓦で屋根が組み上げられた二層八角の建物は、3つの民族の建築的な特徴を兼ね備えた傑作と評価されている。

八角形の建物には、モンゴルの草原に点在する移動式のテント・ゲルを思わせる。

大政殿の両側には、10人の重臣が執務を行う十王亭と呼ばれる東屋風の小さな殿堂が、10軒整然と並ぶ。

左右対称に、北から南に雁が空を飛ぶように配列されている。

大政殿と十王亭が産み出す構図は、君臣が皇帝と同じ場所で執務を行うという清朝初期の八旗制度を表現したものだと伝えられている。

瀋陽の故宮が宮殿としての役割を担ったのは僅かの期間ではあったが、中国最後の王朝誕生の歴史を今でも静かに物語っている。

 

 

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