サー・ジョン・エヴァレット・ミレイ ~ホレーショを目指して~

「惨めなタコめ」

突然、頭に浮かびリフレインする言葉がある。

繰り返し思い出されて、いつまでも頭から離れない。

ここ数日、誰かに言い放ってみたいという衝動に駆られている。

この言葉は、アメリカの人気ドラマ『CSIマイアミ』で主人公ホレイショが悪人に投げつけた台詞だ。

彼は心優しく紳士的な科学捜査官という設定だが、いつだって登場人物を片っ端から容疑者扱いして、酷い暴言を吐く。

幼児には異常な優しさを見せ、子供を傷付ける犯人には容赦ない。

放送開始当初はこの不気味な俳優とキャラに抵抗を感じたが、10年間ですっかり慣れ親しんでしまった。

すでにシリーズは終了しているが、今でもホレイショの名言の数々を思い出して笑ってしまう。

しかしホレイショ(Horatio)といえば、多くの人がシェイクスピアの『ハムレット』を思い浮かべるだろう。

ハムレットの親友の名前だ。

登場人物の多くが死んでいき、主人公ハムレットも死を迎えるラストでホレーショのみが真実を知り生き残ることになる。実は、真実を知る者は他にもいる。それは我々、観客や読者である。

「To be or not to be, that is the question.」
鑑賞者は多くの真実を知らされ、善悪について作品価値について、様々なことを考えさせられる。

考えることで作品は人々の心に刻まれ、時に新たな作品が生まれる。

4世紀の時を経て、『ハムレット』を題材にたくさんの絵画が描かれてきた。

その中でも主人公の恋人オフィーリアの死は数えきれないほど多く描かれている。

それは唯一、私たちが真相を知ることのできない死である。

彼女はハムレットの復讐劇の途中で、正気を失って川で溺死する。

それが自殺だったのか事故だったのか、鑑賞者さえも知ることは出来ない。

この場面を描いた絵画で最も有名な作品は、ジョン・エヴァレット・ミレイ≪オフィーリア≫だろう。

川面に浮かぶ若い女性。

そこには美しさと儚さ、狂気と静寂が共存している。

明るく鮮やかな色彩と細密な描写を特徴とするミレイは、イギリスを代表する画家の一人だ。

准男爵でロイヤル・アカデミーの会長にも選ばれた天才画家。

しかし画家の生涯を知り、真実を知れば、また違った横顔が見えてくるかもしれない。

 

ジョン・エヴァレット・ミレイは、1829年5月7日イギリス南部のサウサンプトンで誕生した。

父は旧家出身の下級公務員で陸軍士官をしており、母は馬具製造業を経営する一家出身という裕福な家庭に育つ。

一家は母の故郷サウサンプトンから父の故郷ジャージー島に移住した。

現在もジャージー島にはミレイという地名が残るほど、長い歴史を持つ一族だった。

島の絵画教室と、地元の画家に手ほどきを受けるなどして、ミレイは幼い頃から絵画を学んだ。

母メアリーは息子の才能を理解したのだろう。

9歳の時にロンドンへ連れて行き、ロイヤル・アカデミーの会長に息子を見せた。

ロイヤル・アカデミーの美術学校に史上最年少の11歳で入学し、10代のうちにロイヤル・アカデミーや美術協会の賞を次々と受賞する。

まさに神童だった。

 

1848年に学友のハントやロセッティらとラファエル前派を結成。

彼らの作品を高く評価したのが、美術評論家ジョン・ラスキンである。

若き画家たちは文学や歴史に主題を借りて、明るく美しい色彩の絵画を発表した。

しかしロイヤル・アカデミーへの不満が根源にある活動だったため、53年にミレイがアカデミーの準会員になったことでラファエル前派は終わりへと向かった。

 

この1853年は、ミレイにとって画業だけでなく私生活においても変化の1年であった。

兄ウイリアムやラスキン夫妻らと旅行して、ラスキンの妻エフィーと親しくなる。

彼女に「伯爵夫人」とあだ名をつけ、モデルを務めて貰ったり、素描を教えてあげたりした。

当時ミレイはラスキン夫妻について「最も完全な人たち」と評していたが、謀らずしもそんな完璧な夫婦の仲を引き裂いてしまう。

旅行をきっかけにエフィーとミレイの仲は深まり、翌年にエフィーは家を出た。

そして一年後、エフィーとミレイは結婚する。

二人は12年で8人もの子供を授かった。

エフィー自身が15人兄弟だったので、大家族を望んだのかもしれない。

しかし第一子が生まれた1856年は、仕事の方は思わしくなかった。

夫を捨てた罪深き女性と結婚したことでヴィクトリア女王に見離され、ラスキンという後ろ盾も失った。

ロイヤル・アカデミー展に出品した≪浅瀬を渡るイザンブラス卿≫は世間から酷評され、評論家ラスキンには「ただの失敗作ではなく、破壊的」と言われてしまう。

ミレイは晩年までこの作品を手直しし続けた。

 

1861年にミレイ一家はサウス・ケンジントンのクロムウェル・プレイス7番地に転居する。

実はこの場所は、約80年後に画家フランシス・ベーコンのアトリエになり、そして現在はナショナル・アート・コレクション基金の本部が入っているという芸術と縁のある場所だ。

それからは順調に評価を高め、63年にロイヤル・アカデミーの正会員に選ばれた頃にはロンドンで最も売れる画家となっていた。

78年にレジオン・ドヌール勲章オフィシエ章を受章し、85年には英国生まれの画家としては初の准男爵の爵位を授与される。

そしてついに96年2月にはロイヤル・アカデミーの会長に選ばれた。

しかし半年後、喉頭癌のため67歳でこの世を去った。

画家ミレイの生涯を振り返ると、順風満帆だったように感じるかもしれない。

いわゆる英国紳士をイメージしたのではないだろうか。

しかしこんなエピソードも残されている。

 

1852年にフレデリック・グッドールがロイヤル・アカデミー準会員に選ばれた際は、そのことに不満を抱いてロイヤル・アカデミー展には二度と出品しないと脅したという。

更に3年後、ロイヤル・アカデミー展に出品した作品の展示位置が気に入らず、90cm下げなければロイヤル・アカデミー準会員を辞退すると威嚇した。

これらの話からは、紳士とは言い難い画家の横顔が見えてくる。

次に、エフィーはどうだろう。

彼女がジョン・ラスキンと別れて不倫相手と再婚したことは、当時は大スキャンダルだった。

7月に裁判所が「夫の性的不能のため婚姻は無効」としているが、妻が夫を捨てることはどんな理由であっても大変罪深いと考えられていたからだ。

そのためヴィクトリア女王はミレイに肖像画を描かせず、エフィーの拝謁を96年まで拒否し続けた(画家の最晩年に女王から望みを尋ねられて「妻の拝謁を許して欲しい」と願ったため許可された)。

しかし評判通り彼女は罪深い女性だったのだろうか。これも事情を知ると考えは少し変わる。

ラスキンは、小児性愛者いわゆるロリコンだったのだろう。

家族同士が親しかったため、ジョン・ラスキンはエフィー・グレイを幼い頃から知っていた。

ラスキンが29歳、エフィーが19歳の時に二人は結婚する。

しかし初夜にエフィーの裸を見て嫌悪し、6年間一度も妻を抱くことはなかった。

さらにエフィーと破局した後ラスキンは、家庭教師をしていた9歳の少女ローズに恋をしている。

そうした事実を知ると、エフィーがラスキンとの婚姻無効を望んだことも、ミレイに惹かれていったことも、必然に思えてくる。

ミレイが紳士か否か、エフィーが悪女か否か、私には分からない。

何かを知れば知るほど、新たな問いが生まれてしまうからだ。

結局、いつまでも『ハムレット』の第三幕から進めないのだ。

「To be or not to be, that is the question.」
できることなら、いつかは多くの真相を知るホレーショになりたいものだ。

ミレイは晩年、製糖業の男と知り合う。

そして男に英国絵画の美術館を設立するよう勧めた。

5年後、その男が美術館を創設した際、寄贈した作品の一つがミレイの代表作≪オフィーリア≫だった。

この名画は今も変わらずテート・ブリテン(テート・ギャラリー)に所蔵されている。

 

サー・ジョン・エヴァレット・ミレイ(Sir John Everett Millais)の
妻エフィーにまつわる略年表
(1829年6月8日イギリス サウサンプトン ― 1896年8月13日イギリス ケンジントン)

 

1829年5月7日 ジョン・エヴァレット・ミレイは次男として誕生。

1831年 ジャージー島に移る。その後は母の療養のために移転するも、再び島に戻る。

1837-38年 ジャージー島の絵画教室に通い始め、ドイツ人画家からも指導を受ける。

1838年 母メアリーは、ロイヤル・アカデミーの会長のもとに息子ジョンを連れて行く。会長からはヘンリー・サスの美術学校への入学を勧められた。

1840年 ロイヤル・アカデミーの美術学校に見習い生として入学。史上最年少の11歳で見習い生の学期修了。(10年間の在籍許可を貰うが、6年間のみ在籍した)

1843年 12月にロイヤル・アカデミーの銀賞を受賞。

1844年 ベッド・フォード・スクエア近くにアトリエ兼住居を借りる。この頃に一度、エフィー・グレイと出会っているという。

1846年 異父兄ヘンリー・ホジキンソンに初めて会い、その後毎年訪問するようになる。

1847年 美術協会の金メダルを受賞する。さらにロイヤル・アカデミー美術学校の歴史画部門で金メダル受賞。

1848年 ラファエル前派を結成。エフィー・グレイと美術評論家ジョン・ラスキンが結婚。

1850年 版画作品の制作を始める。

1851年 ラファエル前派を擁護するジョン・ラスキンに初めて会う。

1853年 ラスキン夫妻と旅行。エフィーがモデルを務める。同年、ジョン・ラスキンの肖像画を制作。ロイヤル・アカデミーの準会員に選ばれる。

1854年 エフィーがラスキンと破局。裁判所は「夫の性的不能のため婚姻は無効」とする。

1855年 7月にミレイとエフィーが結婚。

1856年 第一子の誕生。1~2年おきに子供を授かり、1868年までに8人の子供を授かる。

1861年 サウス・ケンジントンのクロムウェル・プレイス7番地に転居。

1863年 ロンドンで最も売れる画家となり、ロイヤル・アカデミー正会員にも選ばれる。1864年 会員の作例として寄贈するディプロマ作品を提出するが、アカデミーは受諾しれなかった。68年に別の作品を再提出して、やっと受諾される。

1870年 父ジョン・ウイリアム・ミレイが他界。

1878年 レジオン・ドヌール勲章オフィシエ章を受章。20歳で次男が病死。

1885年 英国生まれの画家として初の准男爵となる。

1892年 後にテート・ギャラリーを設立するヘンリー・テートと知り合う。

1896年 ロイヤル・アカデミー会長に選ばれるも、8月13日に喉頭癌のため他界。

1897年 9月に長男が肺炎で死亡。妻エフィーも12月23日に亡くなった。

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